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【記念日掌編】おはよう靴下
深夜の介護施設は静まり返っていた。いつもは賑やかな声が飛び交うこの場所も、夜勤の時間になると息を潜めたように静まる。夜勤の巡回を終え、控室で書類の山と格闘していると、ふと足元に違和感を覚えた。靴下の親指の部分がスルリと穴から顔を出している。
「またか……」
ため息をつきながら、穴の空いた靴下を眺めた。三交代制の勤務に追われる日々は、いつの間にか靴下にまでその疲れを溜め込んでいた。仕事で動き回っていると、気づかないうちに己も靴下も擦り減ってしまうことがある。
この「おはよう靴下」も、もう何度目か分からない。地元では、靴下に穴が空くことをそう呼んでいた。洗濯物をたたみながら母親が僕に言っていた「おはよう靴下」という言い回しが、懐かしい響きとなって耳に蘇る。
夜勤を終え、家に帰りついた頃には朝日が少しずつ昇り始めていた。
玄関をそっと開けて音が鳴らないように忍び込むと、家の中はほのかな暗さに包まれていた。朝日にほのかに照らされた穏やかな彼女の寝顔を見て、つい、いたずら心が芽生えた。ベッドにそっと近づき、右足の親指を突き出したまま声をかけた。
「おはよう靴下!」
思わず笑いながら、少し大きな声で叫んでしまった。すると、寝室から彼女が身じろぎし、うっすらと瞼を開く。僕の顔を見て、少しだけ口角を上げた。
「ん……何?」
寝ぼけ眼でこちらを見た彼女は、僕が右足を持ち上げてプルプルしながら片足立ちしていることに気付き、少し驚いたように眉を上げた。
「また靴下に穴が空いちゃってさ……ほら、おはよう靴下!」
僕は笑いながら親指をひくつかせて穴の開いた靴下を見せた。
すると彼女は、目をこすりながらも突然笑い出した。それは、ただの笑いじゃなく、涙が出るほどの笑いだった。体をくねらせながら笑う彼女を見て、僕もつられて笑ってしまった。
「懐かしい……『おはよう靴下』なんて、久しぶりに聞いた」
彼女は布団の中で体を揺らしながら、涙を浮かべるほど笑っていた。子どもの頃、地元ではよく靴下に穴が空くと「おはよう靴下」とからかわれた。その言葉が、今では懐かしくてたまらない。
「何? 記念日だねって感じ?」
彼女が笑いを収めながら言う。
「サラダ記念日みたいに?」
僕は苦笑いしながら応じた。
「そうよ。毎年、靴下に穴が空く日を『おはよう靴下記念日』にしちゃえばいいじゃない。あなた、働きすぎなんだよ」
彼女の言葉に、心が少し軽くなった。仕事の疲れも、靴下の穴も、彼女が笑ってくれることで何か救われた気がした。そんな日常のささやかな瞬間も、記念日になり得るのかもしれない。
「じゃあ、これから毎回祝おうか。おはよう靴下記念日」
僕はそう言いながら、新しい靴下を履くために引き出しを開けた。
【桃井】