【記念日掌編】ささやかな不運
静かな夜、湯気のこもる浴室で洗濯物を干す。乾燥機のスイッチを入れ、扉を閉める。部屋干しのシャツやタオルが小さく揺れ、すこし安心する。これで朝にはカラリと乾くはずだ、とひとり納得して、ベッドに向かう。私にできる精一杯の段取りだ。
けれども、朝、浴室の扉を開けると、必ずといっていいほど、不運がそこにいる。空気はひんやりとしていて、洗濯物は壁際に寄せられ、スイッチも止まっている。しっとりと生乾きのままのシャツと、うつむいたタオル。ため息が出るけれど、苛立ちよりも「またか」という諦めのほうが勝る。どうせ、これは毎朝のことだから。
それは、私の日々の中に寄り添う小さな不運だ。たとえば、昨夜のお弁当用にふんわりと焼いた卵焼き。翌朝のためにそっと冷蔵庫にしまった、わたしなりのささやかな努力。だが、朝、冷蔵庫を開けると、卵焼きの上に2リットルのペットボトルが無造作にのせられている。卵焼きはぺしゃんこに押しつぶされ、存在を嘲笑うかのように潰れた形をしている。
こんなことが、一度や二度でないのが、この「不運」の奇妙なところだ。夜のうちに整えたはずの準備が、朝にはたいていどこかで踏みにじられている。時には、冷蔵庫の中の牛乳が減っていたり、ゴミ箱が突然あふれていたりすることもある。眠りについた私の知らないところで、不運が小さな仕業を仕掛けてくるのだ。
そんな朝の出来事が積み重なっても、私は不運をただ受け入れる。どうせ誰に話しても理解されないし、どうしようもないことなのだ。いわば、この家に漂う不可視の影のように、不運が傍にあるのだと、そう思い込んでいる。
ある日の朝、私はふと、自分の不運について思いを巡らせていた。湯気のこもった浴室から壁際に追いやられた生乾きのシャツ、ぺしゃんこになった卵焼き、冷蔵庫の中でふと姿を変える食品たち。それはまるで、ただ私を試すためだけに起きる、ささやかな超常現象のように思える。
だけど私は知っている。この不運の正体を。実はそれは、私の父なのだと。
無口な父は、他人にほとんど無関心で、常に自分のことしか考えていない。彼は夜中にシャワーを浴びるために、私の干した洗濯物など気にも留めず乾燥機のスイッチを止めるし、冷蔵庫には自分が冷やしたいペットボトルを、私の卵焼きを踏みにじってまで押し込む。牛乳が減っていようが、ゴミ箱があふれていようが、それが私にどう影響するかなど考えたこともないのだ。
父には悪意がない。ただ、無頓着なだけで、私は何度もそれを思い知らされてきた。だからこそ、私は心のどこかで「不運」ということにしている。さもないと、父への憎しみが募るだけだから。
そして私は、今日も黙って不運とともに暮らす。十五年前の今日、ここに生まれてしまったことも、きっと同じ、ささやかな不運なのだと思いながら。
【桃井】