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【記念日掌編】生きているだけ

 この生活を送り始めて何年経っただろう。
 実家に帰って一人で部屋にこもりっきり。まともに親とも話していない。だから急に話しかけられると声が出なくて不審者扱いされるし、たまにコンビニとかに買い物に行ったとき、店員と目があったりするとキョドってしまう。
 色々なほとぼりが冷めたら、またやり直そうと奮起して何かできると思っていた。けれども実際のところ、俺には気力も無ければ度胸も無かった。
 気がつけば俺の周りにいた人々の影は既に無くて、みな先に進んでいた。残っていたのは俺の身内だけで、その人達の生暖かく憐みの混じった笑顔だけが俺を後悔の渦に巻き込んだ。
 会社員だった時の記憶が、時々布団に入っていると蘇ってくる。上司からの𠮟責、理不尽な客からのクレーム、同僚からの差別的な視線。不快と悲しみとイラつきにまみれた思い出が、いつも俺を苦しめる。

 夜中に散歩する事がしばしばある。誰もいない道を歩くのは、人目も気にしなくていいし、何より空気が澄んで気持ちがいい。冬のこの時期は特にそうで、寒さを我慢すればとても良い空間がそこにはある。
 しばらく歩くと公園に辿り着く。そしてベンチに腰掛けると、スマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開く。時々送られてくる元カノからの励ましの言葉を見ては、白い息を吐く。
 彼女はいい人だった。仕事を辞め、地元に戻るときに別れることになったが、最後の最後まで心配をしてくれた。現に今もこうして気にかけてはメッセージを送ってくれている。また話したいといつでも思っている。けれども今の自分は本当にショボすぎて、彼女に電話する言い訳すら思いつかない。言い訳なんかしなくても彼女は受け止めてくれるだろうが、それはそれで俺が戸惑う。そんな心の奥にあるどこかしらの不信感を跳ねのける力は、もう無い。

 君といられたのが嬉しい。本当ならずっと一緒に居たかった。多分俺と出会ったことが間違いだったんだと思う。こんな俺に引きずられる事無く、自分の人生を歩み始めるべきなんだ。会えないのはちょっと寂しい。けれども誰かの君になってくれるのは嬉しい。君が幸せな道を歩むなら、僕はそれで幸せだ。
 僕はそんな事を書いて彼女にメッセージを送りつけると、アカウントをブロックした。こうして外界との繋がりをまた一つ減らす。もう殆ど繋がりなど存在していないが、もし自分が明日死んでいたら、今日という日が決め手と言われるのかなと、少し思った。

目が覚める。
今日も波も立てずに穏やかに生きて、目立たないように慎ましく過ごす。
そして上向く予兆も無いまま日が落ちる。今夜も飲み疲れて眠っちまうだけ。

死んでいる方がマシさ。

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