【記念日掌編】甘さ足らず
その朝、彼は何かに導かれるように目を覚ました。いつもと同じような朝だった。カーテン越しに差し込む光は柔らかく、時計は7時半を指している。普段なら二度寝してもいい時間だが、今日は何かが違った。彼はベッドから起き上がり、台所に向かうと、静かにコーヒーメーカーを取り出した。特に理由はない。いつものルーティンだ。ただ、それでも今日は何かを忘れている気がした。何かが欠けているような感覚。だが、それが何なのかはまだ思い出せない。
豆を挽く音が静かな部屋に響く。香りが広がり、彼は深く息を吸い込んだ。この瞬間はいつも好きだった。苦味と酸味のバランスが取れたコーヒーの香りが、何か特別なものを思い出させてくれるようでありながら、何も思い出せない不思議な感覚に包まれる。彼はカップにコーヒーを注ぎ、窓辺のテーブルに座った。窓の外を見ながら、一口飲む。温かくて、ほろ苦い味が舌に広がる。いつもの朝。いつものコーヒー。けれど、今日は何かが違う。
今日って、何かあったっけ。彼はぼんやりと自分に問いかけた。記念日か何かだったのだろうか?だが、何の記念日だったか思い出せない。彼は別に記念日を特別に祝うタイプではないし、スケジュール帳を確認する気も起きない。それでも、この不思議な感覚が彼の胸に居座っている。
ふと、彼女のことが頭をよぎった。もう何年も前に別れた女性だ。彼女もコーヒーが好きだったが、彼とは違って甘いものが好きで、コーヒーには砂糖をたっぷり入れ、ミルクも多めに入れていた。彼はそれを見ていつも不思議に思っていた。どうしてそんなに甘いものが好きなのか、と。苦いコーヒーの方が大人の味だと信じていた彼にとって、砂糖たっぷりのコーヒーは子供っぽく感じられた。
「甘さが足りないんだよ」と彼女は言ったことがあった。
「人生にはね、時々甘さが必要なの」
当時の彼はその言葉を聞き流していた。何もかもが若かった。彼女の言葉の意味を深く考えたことはなかったし、彼女の好みがどうであれ、自分のコーヒーの飲み方に口を挟まれるのは嫌だった。結局、彼女とは別れた。それが良かったのか悪かったのか、今ではもう分からない。別れはいつも突然訪れるものだ。理由は些細で、後から考えればどうでもいいようなことばかりだが、その時はそれが全てに思える。
彼はカップに残ったコーヒーを見つめた。冷め始めている。窓の外を見ると、曇りがかった空の下で木々がそよ風に揺れている。何の変哲もない朝。だが、その普通さが心地よくもあり、同時に不安を呼び起こす。彼は再びカップを持ち上げ、一口飲む。もう少し砂糖を入れてみるか、とふと思った。彼女の真似をしてみようというわけではないが、何かを変えることでこの不思議な感覚が少しだけ和らぐかもしれない、そんな気がしたのだ。
キッチンに立ち、砂糖を一杯、カップに入れる。スプーンでかき混ぜる音が静かな部屋に響く。砂糖の甘さが溶け込んだコーヒーをもう一度口に運ぶと、その違いに驚いた。確かに、甘さが加わるとコーヒーの味がまったく変わる。苦味が和らぎ、口の中にほのかな甘さが残る。それは不思議な感覚だった。まるで彼の中にある何かが、ゆっくりと解け出していくような感覚。彼女が言っていたことが、少しだけ理解できる気がした。
甘さが足りない。人生にはそういうこともあるのだ、と。
彼はもう一口飲む。外の風景は変わらない。曇り空の下、遠くのビルがかすんで見えるだけだ。それでも、彼の中で何かが少しずつ変わり始めていることを感じた。それが何なのか、まだはっきりとは分からない。だが、彼はその変化を恐れなかった。むしろ、それを受け入れようとしている自分に気づいたのだ。
ふと、彼はテーブルの上に置かれたカレンダーに目を向けた。今日の日付が印刷されている。それを見た瞬間、記念日だったことを思い出した。ちょうど1年前、彼女と最後に会った日だ。思い出した途端、彼は少しだけ笑った。記念日とはいえ、特別なことがあるわけではない。ただの過去の一日だ。けれど、その日が彼にとって何か意味を持っていたことも、今になって少しだけ分かる気がした。
彼はカップを持ち上げ、最後の一口を飲み干した。甘さはもう口の中には残っていないが、それでいい。今日のコーヒーは、これで十分だった。窓の外の曇り空は少しずつ明るくなってきている。新しい一日が始まる。彼はもう一度、静かに息を吸い込んだ。
「今日は良い日だな」
そうつぶやくと、彼はカップを台所に戻し、いつも通りの日常を続ける準備をした。それでも、その日が他の日と少しだけ違うことを彼は感じていた。彼にとって、今日という日は、忘れられない記念日となるだろう。そして、それは特別な意味を持つ記念日ではなく、ただの「いつもの日」なのかもしれない。それで十分だと思えた。
【桃井】