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【記念日掌編】あの日のまま

その夜、居酒屋のざわめきに混ざって、先輩の声が唐突に響いた。

「好きなシチュエーション言ってこ!」

その一言で、テーブルに座る文芸サークルのメンバーたちは一瞬だけ静まり返ったが、すぐに笑い声や冷やかしが飛び交い始めた。
「先輩の好きなシチュも聞かせてくださいよ」
と誰かが言う。
「それは本ができてからのお楽しみ」
先輩は涼しげな笑みとともにさらりと躱した。

この日は大学の文芸サークルの会合があり、次回の合同誌に向けての打合せを早々に終わらせて夜の街へと繰り出したのだ。

「こっちにばっか言わせやがって」
あちこちから文句が聞こえるたびに先輩はニヤリと笑い、
「私はもう書けてるからね」
と軽く返していた。次回の合同誌のテーマは「恋愛」と決まってはいたものの、今日の時点で原稿が進んでいたのは先輩ただ一人だった。

飲み会が終わり、皆が店を出ると、涼しい夜風が酔いを少し冷ましてくれた。僕は一人で歩き出そうとしたところで、先輩に呼び止められた。

「さっき言ってた、好きなシチュエーションさ」
その声に振り返ると、先輩は意味ありげな笑みを浮かべていた。ストレートの黒髪が風に揺れている。

「もしかして、サークルの中に当てはまる人がいるんじゃない?」
その問いに、一瞬言葉を詰まらせてしまった。
「やめてくださいよ」
反射的にそう返すと、彼女の笑みはさらに深くなった。
「やめてってことは、いるってことだね?」

彼女の声は、まるで心の内を見透かしているようだった。僕はごまかすように笑いながら首を振った。
「そんなんじゃないんです」
「じゃあ、いいよ」
先輩は肩をすくめる。
「そしたら、さ。君の好きな人を当てるのと、私の好きなシチュエーション聞くのと、どっちがいい?」
「そんなもん、どっち選ぶかなんて決まってるじゃないですか」
僕は軽い気持ちで返したつもりだったが、先輩の目は真剣だった。
「だよねえ。もしかして私なのかなって、ちょっと思ったんだ」

僕の心臓が跳ねた。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。
「聞きたかったのはそっちじゃないです」
動揺を隠せないまま声を絞り出すと先輩は肩をすくめた。

「私の好きなシチュエーションはね、ああいうときにうつむいて、絶対目を合わせてくれない、ってやつ」

彼女の言葉に、僕は無意識に目をそらしていた。まさに先輩の言う通りだった。
「二個とも教えてあげたんだから、正解かどうか教えてよ」
僕はしばらく黙っていた。どう返せばいいのか分からなかった。

「例えば正解だったとして、先輩はどうするんですか?」
思わず口にしたその問いに、彼女は少し戸惑った表情を浮かべた。
「正解だったらいいなって思って、追いかけてきたんだよ」
その言葉が胸に響いた。僕は、彼女が何を求めているのか、何を伝えたいのかがようやく分かった気がした。

その後、僕たちはお互いを意識し合いながらも、サークルの仲間には気づかれないように、ひそかに距離を縮めていった。サークル活動そっちのけで、一緒に過ごす時間が増えた。お互いの小説には、わざと違うシチュエーションを描いたりして、バレないように工夫しながら。

だが、そんな時間も長くは続かなかった。付き合い始めてから数ヶ月、僕たちはすれ違い、結局別れることになった。

あの日のまま終わっていれば、きっと永遠に美しい思い出として残ったのに。今ではその記憶さえ醜く変わってしまったのが残念でならない。

記念日となったこの日を繰り返すたびに、あの美しい夜を思い出す。

【桃井】

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