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【記念日掌編】空虚と飲む

彼と初めて会ったのは、渋谷の裏通りにある小さなバーだった。金曜日の夜、その場所はいつもほどよく混んでいて、カウンターには一人で静かに飲む客が数人いるだけだった。私もその一人だった。

「羊水塞栓症って知ってる?」
彼は突然話しかけてきた。時おりこのバーで見かける男だ。声を聞いたことはあるけれど、話したことはない。どのくらいのペースで酒を飲むのかは知っていても、名前は知らない。

羊水なんとか症について私はまったく知らなかったので、ただ首を横に振った。
「出産時に、羊水が母親の体内に逆流するんだ。多くの場合、母親は死に至る」
唐突に死の話を持ち出され、私は返事ができずにいた。おかまいなしに男は続ける。
「簡単に言うと、妻が羊水の中の俺のたんぱく質にアレルギー反応を起こして死んだんだ」
彼は、まるで天気の話でもするかのように淡々と言った。
「そんなことってあるの?」と、私は訊いた。

「あるんだよ」
彼は笑いながらグラスを軽く揺らした。
「でも普通、知らないよね。俺だってその時まで知らなかった。医者から説明を受けたとき、まるで悪い冗談を聞いてるみたいだったよ。自分の体が妻を殺したってさ。おかしな話だろ?」

私は何も答えられなかった。彼の表情には暗さはなく、むしろ軽やかなものだった。まるで他人の話をしているかのようだった。

「それだけじゃないんだ」と彼は続けた。
「子供も生まれたんだけど、18トリソミーっていう遺伝子異常でね。半年で死んだ」

彼はそれをあっさりと告げた。言葉に感情の重みは感じられなかった。ただ、事実を述べているだけのように見えた。それでも、私の胸の奥には、何か冷たいものがじわじわと広がるのを感じた。

「つまり、俺は妻も子供も一度に失ったってわけさ。普通、そんなの耐えられないだろうって思うかもしれないけど、意外と人間って強いんだよ。時間が経てばなんとかなっちゃうんだ」

彼はまた笑った。それは不思議な笑いだった。軽くて、無力で、それでいてどこか深く沈んでいた。彼はグラスを見つめて、その中に自分の人生の一片を溶かし込んでいるようだった。

「それで、今はどう?」と、私はようやく言葉を搾り出した。

「今?」
彼は少し考えるようにしてから、肩をすくめた。
「まあ、普通にやってるよ。仕事もあるし、友達もいる。女の子を紹介されたりすることもあるしね。でも、深入りはしないんだ」

「なぜ?」と私は聞いた。

「なぜって、考えたこともないな。多分、怖いんだろうな。また誰かを失うのが。いや、もしかしたら失うことより、自分がまた誰かを死なせるんじゃないかって考えるのが怖いのかもしれない」

彼は軽く笑って、それ以上は何も言わなかった。その笑顔の奥には、何か言葉にできないものが潜んでいるようだった。それは、私には決して触れることのできない何かだった。

「それが俺だよ」
彼は最後に静かに言った。そして、グラスを一気に飲み干した。

その瞬間、彼がまるで別の世界にいるように感じた。私は彼の物語に引き込まれながらも、その距離感が変わらなかったことに気づいた。彼はただ、自分の中にある空虚を埋めるために話しただけなのかもしれない。そしてその空虚は、私には決して触れることのできないものだった。

【桃井】


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