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僕の新橋LIFE(その9)
田舎で育った人間にとって東京は大都会だ。大阪は自分が育った西日本の田舎の延長線上にあるけれど、東京は未知の世界、異国。
首都圏に住んでいる人がニューヨークに住む感覚に近いのでは、と思う。
TVの刑事ドラマやニュースで見る世界。
日々、殺人事件が発生する犯罪の巣窟(注)。
そんな東京に飛び込んだ田舎モノの私が経験した、かれこれ30年以上も昔のお話。
(注)刑事ドラマやニュースしか情報ソースがなかったため勝手にそう思い込んでいただけ。
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シンガポール編
東京で就職しようか、それとも田舎に戻ろうかとグダグダしていたのが7年前。
それなのに、今、海外にいる。
東京もそうだけれど、テレビでしか見ることのなかった世界に自分が足を踏み入れていることが不思議でならない。
実は夢なんじゃないかと思っていた。
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しかし、シンガポールのチャンギ国際空港に降り立った自分は夢の中の自分ではなく、現実の自分のようだ。足が空回りすることなく空港の硬い廊下の感触もあった。
明らかに日本とは違う風景。
空港や町中に溢れる英語の看板。
様々な人種。
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南国感溢れる風景を横目で見る。
気が付くと車はOrchard Roadへ来ていた。
繁華街に近いビル街の一画。
ビルの車専用スロープを上り、駐車場で車を停める。
officeに向うためエレベーターに乗った。
当たり前だが、エレベーターの音声も英語。英語の授業で聞くカセットテープとBeatlesの歌くらいしか、生の英語を聞く機会がなかったので、「あ、ホントに海外いるんだ」と妙に納得した。
そうこうしているうちに、事務所のあるフロアへ到着した。エレベーターの「チーン」という高音が耳に残った。
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一部上場会社である親会社と同じフロアの一画に我々のシンガポール支店がある。
そこで日本人駐在員と「ローカル」と呼ばれる現地採用の従業員が働いている。
支店長は日本からの駐在員。
その他、数名の日本人もいる。
現地採用のローカル従業員はチャイニーズ系シンガポール人で顔は日本人と変わらない。
日本人支店長が従業員を紹介してくれた。
「こちらがAnnie、こちらがTeresa‥」
(ア、アニー?!‥
(テ、テレサ?!‥)
見た目は日本人と変わらない。
なのに、欧米人の名前。
後で聞いたら、呼び名は欧米系だが、それとは別にチャイニーズ系の名前もあるのだそうだ。
今度は自分の番だ。
「私の名前は皆さんにとっては発音しにくいと思うので、ジョーと呼んで下さい」
英語でそんなふうに挨拶をしたと思う。
それから、ローカル従業員は私のことを「ジョーさん」と呼ぶようになった。
その日の夜の歓迎会。
AnnieとTeresaも来てくれた。
会話はシングリッシュという独特の英語。
シングリッシュというのはシンガポールイングリッシュという造語を略した言葉だ。
シングリッシュの特徴は発音が独特でとても聞き辛いこと。抑揚がなく、欧米人の話す英語とはまったく違う。
そして、英語でありながら中国語も混じることがある。例えば、「OK!」という言葉。
シングリッシュだと「OK la !」となる。
「OK」はわかるが、語尾についた最後の「la」は何だ…。完了の「了」?
それとも、ただのリズ厶合わせの言葉?
そもそも、キレイな英語でさえ、聞き取れないのに、独特のルール、語感を持つシングリッシュは更に厄介だ。
ローカルスタッフの中でAnnieが一番の古株。そして、一番のシングリッシュの使い手。
つまり、めちゃくちゃ言葉が聞き取り辛いということだ。
それでも、カタコトの言葉で何とか頑張ってコミュニケーションを取った。
Annieとのコミニュケーションを通じて気付いたのはシンガポーリアンは昔の日本人みたいだ、ということだった。
恐らく、シンガポーリアンというより、中華系の庶民全般、(よくTVで見るお金持ち中国人は別にして)似たような感じなんだろうと想像した。
Annieも似たような印象を持ったのだろう。
「ジョーさん、しっかり食べなさい!」
と言って、俺の皿に料理をよそってくれた。
(何か田舎のおばちゃんみたいだな…)
そう思った。
海外ということで、えらく構えていたものの、同じ人間、同じアジア人、言葉は違うけど、「そんなもんだ」と感じたシンガポール初日だった。
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翌朝、ホテルで朝食のバイキング料理をしこたま食べた後、歩いてOfficeへ向かった。
Officeに着くと、ジュースを売っていたので一本買って飲んだ。
えらく甘ったるいジュースだった。
飲み終わった缶を捨てようとしたところ、目の前に飲み終わった別の缶が放置されているのに気付いた。
(しょうかねぇなあ‥)
と思い、自分のものと一緒に空缶を捨てた。
すると、Annieが声を掛けてきた。
「ジョーさん、ダメ、それは彼女の仕事!」
と言い、清掃担当の女性を指差す。
「ジョーさん、そういうことすると、彼女の仕事を奪うことになるのよ」
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良かれと思った日本人の常識的な対応。
しかし、常識は国や地域によっても違うということを知った。
席に戻り、仕事を開始。
何種類かの書類に目を通す。
すると、明らかにミスと思われるものを見つけてしまった。
Annieに声を掛けた。
「Annieさん、これ、間違ってるよ」
すると、Annieは、
「Joe-san、Never mind la!」(気にするな!)
「気にすんな」って、アンタのミスだろが‥。
だから、Annieに向かって
「I mind !」(気にするわ!)
と言い返したら、Annieは笑っていた。
コイツ図々しいなぁ、と思う一方、下手な英語でも気持ちが通じて、何だか嬉しかった。
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その夜、日本人駐在員にシンガポールの屋台村であるホーカーセンターへ連れて行ってもらった。
チャイニーズ文化圏は朝ご飯も外食するのが常識、だから、ホーカーセンターは朝も夜も1日中営業している。
たくさんのお店があり、それも安くて旨い。果物もマレーシアからの輸入なのだろう、めちゃくちゃ豊富で美味しい。
高級レストランを除けば、総じてシンガポールの食べ物は安くて美味い。
また、贅沢品である車を買おうとすると、とんでもなく高くなるが、タクシーを使う限り、そのコストはとても安い。
おまけに治安もとても良い。
インド人街は危険だと聞いていたが、そこ以外は夜でも、そして、日本からの出張者でも安心して1人で歩けるのだそうだ。
だから、シンガポールという国は俺にとって、スゴく活動しやすい国だった。
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ホーカーセンターで晩ごはんを食べで、軽く飲んだ後、バーに連れて行ってもらった。
日本語、英語、中国語が入り乱れる場所。
当時、日本人はお金持ちと思われていた。
だから、こういう場所では日本人というだけで、よくモテた(タカられた)。
そんな環境下で大学時代に第二外国語として選択した中国語がとても役に立った。
「Joeさん、中国語、上手ネ!」
もちろん、お世辞だ。
けれど、会話のネタになるし、お酒が進むほどに楽しくなってきた俺は、周りのお姉さんに「ピャオリャン」(綺麗)と「クーアイ」(可愛い)を連発した。
大学の先生も教え子がこんなシチュエーションで中国語を使うとは想像もしていなかっただろう。
片言の英語と中国語、そして日本語。
何だかぐちゃぐちゃだが、会話をしようとする意思、相手に何かを伝えようとする意思、そして、相手のことを理解しようとする意思さえあればコミュニケーションは成立するんだな、と思った。
異国というシチュエーションと薄暗い店内で、アルコールの酔いも手伝って、みんながピャオリャン(綺麗)で、クーアイ(可愛い)に見えた。
その結果、ギター代金の返済が終わり、負債ゼロとなったクレジットカードにまたもや負債が累積していくのだった。
(つづく)