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短編小説:放課後の雨

 体育の授業中、佐倉湊は軽く足をくじいた。バスケの試合形式の練習中、パスを受けようとした瞬間、相手と交錯してバランスを崩したのだ。捻挫とまではいかないが、足首がじんわりと痛む。

「……いってぇ」

 授業が終わり、靴を履き替えながら湊は小さくつぶやいた。すぐに治るとは思うが、無理をすれば悪化しそうだった。とはいえ、誰かに頼るほどの痛みでもない。できるだけ平気なふりをして教室に戻った。

 放課後になり、いつもなら友人と駅まで一緒に帰るところだが、今日は一人で帰ることにした。体育の疲れもあって、少しゆっくり歩きたかったからだ。しかし、ちょうど昇降口に差し掛かったとき——ぽつり、と頬に冷たい感触が落ちた。

「……雨?」

 気づけば、外は薄暗くなり始めた空の下、小さな雨粒がアスファルトを濡らし始めていた。

 運が悪いことに、傘を持ってきていない。駅までは徒歩二十分ほどだが、この調子ではびしょ濡れになるのは目に見えていた。ため息をつきながら、湊は昇降口の屋根の下で雨宿りをすることにした。

「……あれ?」

 ふと視線を横に向けると、すぐそばにもう一人、傘を持たずに立っている人がいた。

 藤井千尋だった。

 同じクラスだが、特に話したことはない。彼女は本を読むのが好きで、休み時間も静かにしていることが多い。目立たないわけではないが、積極的に誰かと絡むタイプではない。

 そんな千尋が、雨をじっと見つめながら立っていた。

「傘、持ってないの?」

 なんとなく、そう尋ねてみた。千尋は一瞬驚いたようにこちらを見たが、すぐにこくりと頷いた。

「うん……。天気予報、見てなかったから」

「俺も」

 苦笑しながら答えると、千尋は少しだけ口元を緩めた。ほんの少しの表情の変化だったが、それだけで彼女の印象が変わった気がした。

 二人の間に沈黙が落ちる。とはいえ、気まずいものではなかった。ただ、雨音が心地よく響いていた。

 しばらくして、千尋がぽつりとつぶやく。

「……雨の匂い、好き」

「匂い?」

「うん。降り始めたばかりの雨って、ちょっと土の匂いがするよね。あれが好きなんだ」

 湊は、改めて雨の気配を感じてみた。確かに、湿った空気にまじって、地面が濡れたような独特の香りがする。

「そう言われると、俺も嫌いじゃないかも」

「本当?」

 千尋がこちらを見る。少し嬉しそうだった。

「うん。雨自体はめんどくさいけど、この匂いは悪くない」

 そう言うと、千尋はふっと微笑んだ。湊は、その笑顔が思っていたよりも柔らかいものだったことに少し驚く。

 それから、なんとなく会話が続いた。千尋は読書が好きで、最近はミステリーをよく読んでいるらしい。一方、湊は運動部に所属しているが、実は甘いものが好きで、特にシュークリームには目がないことを打ち明けた。千尋は意外そうな顔をしたが、「それ、ちょっと意外」と言いながら笑った。

「……あ、ちょっと小降りになってきた」

 千尋が空を見上げる。いつの間にか雨は弱まり、雲の隙間から夕焼けが少しだけ顔を出していた。

「そろそろ帰れるかな」

 そう言いながら、千尋は一歩踏み出した。しかし——

「あっ」

 足が痛む。湊は小さく顔をしかめた。

「大丈夫?」

 千尋が心配そうに覗き込む。

「ちょっと足くじいててさ。歩けないほどじゃないけど」

「……駅までなら、一緒に歩こうか?」

 思いがけない申し出に、湊は驚いた。千尋は、自分から積極的に誰かと関わるタイプではないと思っていたから。

「いや、大丈夫……」

「でも、ゆっくりなら歩けるんでしょ?」

 千尋は、どこか淡々とした口調で言う。気を使っているというよりは、ただ自然にそう提案したようだった。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 湊は軽く肩をすくめ、千尋と並んで歩き出す。雨上がりの空気は、どこか涼しくて心地よかった。

「この時間帯の空気、なんか好きだな」

 ふとつぶやいた湊に、千尋は少し驚いた顔をした。

「……私も」

 不思議な偶然に、ふたりは思わず笑い合った。

 それは、なんてことのない放課後の出来事。
 でも、それがふたりの距離を少しだけ縮めた時間だった。

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