見出し画像

そこまでする?(前編)

今から20年以上も前に経験した, 少し苦い思い出話である.

###

〈起〉

上京直後のある日, 教授から患者さんの診察を頼まれた. 医学的にもいくつかのリスクは認められていたが, 驚くことがもう一つあった. 

同門の開業医(同じ医局の先輩)から教授へ宛てられた紹介状の中に, 「T大学の教授夫人なのでくれぐれもよろしく」と書かれていたのである. カルテにT大学の文字があれば, 疑うべくもない. しかも法学部とある.

二回目の外来受診時に, その主人が診察室に一緒に入ってきた. お互いに自己紹介をする.「専門は何ですか?」と聞くと, 「民事です」との返事. 民事といえば, 医療裁判 ― と, 何かちょっと嫌な連想が浮かんできた.

若干緊張しながら, 今後の治療方針やリスクの説明に話題をうつす. 今度は逆に「先生は西日本の○○県の出身ですか?」と聞いてきたので, 「そうです」と答えた. すぐさま, 「えっ, 実は私もそうなんですよ」と返答があり, それからは一転して打ち解けた関係となった.

結局, 妊婦自身のもつリスクのため, 帝王切開による分娩となったが, 母児とも極めて順調な経過をとった. 

術後に個室を訪れると, 世間話に花が咲き, 彼女の口からは自分が東京出身である事, そして夫には海外留学の経験があり, 帰国後北海道にしばらく暮らしていたことが明かされた.

〈承〉

分娩後の一ヵ月健診も無事に済み,「是非一緒に食事を」ということになった. 四月中旬の夕方, 某駅で待ち合わせ, 彼らのなじみの寿司屋に向かう. (写真1)

写真1: 寿司屋で

店には生まれて間もない赤ちゃん連れの奥さんが既に待っており, 早速食事が始まった. 鮨をつまみながら, お互いの留学話に酒も弾む.

「先生の高校時代にも, 旺文社の模擬試験はあったでしょう. 私は英語で二回続けて全国トップになりました. その時の記念品を今でも持っていますよ」と自慢げに彼はいう. あり得ない話ではないなと思った. 

なおも,彼は話を続ける.「先生の母校の先輩にあたる教授を知っています. かなり年輩の人ですが, 私も同郷のよしみで可愛がってもらっています. 今度紹介しますよ」

しばらくして, 客がわれわれだけになったのを幸いに, 店の座敷奥に置いてあるカラオケでフォークソングの歌合戦に興じることとなった. 彼が唄う歌を私は全部知っていて,逆に私の唄う歌はうろ覚えだったのがよほど悔しかったらしい.

それをきっかけに, 七月に開かれる有名なアーチストのコンサートに一緒に行こうと話が発展した.「チケットの手配は任せて下さい」と自信満々の彼に見送られながら, 手配されたタクシーに乗って寿司屋を後にした.

久しぶりに暇がとれた五月下旬の土曜日の夕方, T大近くで食事しようということになった. この時も, 我が子を抱いてきた奥さんが同伴だったので, よほど酒が好きな夫婦なんだなーぐらいにしか思わなかった.

おりしも学園祭が開催されていた. 

向かった店は, かつて彼が学生の頃よく通っていたという, いかにも学生街にある居酒屋だった.

「我々夫婦と先生合わせて三枚のチケットが取れました. 是非一緒にいきましょう」と, ここで, コンサートチケットを貰う.(写真2)

写真2: コンサートチケット

同時に, わが母校の先輩に当たる教授が顧問をされているクラブのパンフレットも渡された. 

今後は、食事代を私が支払って店を出た後, 彼は自分の教室がある場所を示しながら, 酒の勢いに任せて, 「近頃の学生はどうも根性がない」と, 騒ぎを繰り広げている若者たちに苦言を呈し続けている.しかし, 人ごみに紛れてしまい, いつしか夫婦とはぐれてしまった.

待ちに待ったコンサートの日がやってきた. 仕事を片付けるやいなや会場に向かい,開演十五分前にようやく席につく. 

かつての名曲に, 新しい唄が随所にとりいれられていて, コンサート自体は, 素晴らしいものだった. 会場はほぼ満員. だが, 隣の二つの席は最後まで空席のままだった…

何があったのか?携帯電話をかけ続けるも,結局は繋がらなかった.

八月末になって, ようやく彼と連絡がとれた. とにかく, 一度会って食事でもしようということになって, 今度は私が馴染みになった別の寿司屋で落ち合うことにした.

「色々あって連絡できず, 心配かけてすみませんでした」と, 久しぶりに会う彼の顔は, 三ヶ月前と比べて確かに痩せこけている. 

改めて聞けば, 事情があって今は女房と別居中, 大学のほうも休んでいるという. ようやく元気を取り戻しつつあるとのことであったが, 酒がすすむにつれ, やはり郷土の話に落ち着き, 最近, 私と同郷の女性経営者と知り合いになったと自慢げに彼は言う. 

そして, 今身を寄せているところの連絡先が書かれてある名刺の裏に, その彼女の連絡先を書いて, 私に手渡した. ―これが後で大きなキーポイントになるとは知らずに… 

(後編に続く)

いいなと思ったら応援しよう!