私のワードローブ史(2):四大トラッドスーツとの出会い
思い起こしてみれば、初めてスーツに手を通したのは大学の入学式ではなかったか?
スーツにまつわる自分史を振り返ってみる。
己の寸胴な体型から、からだのシルエットが強調されているヨーロッパ調よりも、ストレートラインに主眼が置かれているトラッドファッションを好んで着てきた。そのファッションは、歳を取るにつれて「VAN」~「Kent」~「J. Press」~「Brooks Brothers」へ変わっていくと、服装に詳しい同級生から教えられてきた。私の場合、70年代に「VAN」、80年代に「J. Press」、90年代に「Brooks Brothers」、そして2000年代に「Kent」と移っていった。(写真1)
VAN (脚注1)は、トラッドファッションの原点である。これがなければ、日本に「トラッド」という文化は根付かなかっただろう。(写真2)
残念ながら、VANの全盛期が60年代だったので自分が高校を卒業する70年代頃には、なかなか手にする機会がなかった。大学生になって、幸運にもVANグッズに遭遇することができたのは、1975年(昭和50年)7月に開店したばかりのダイエーショッピングプラザで催されていたバーゲンセールのお陰である。今でも私の手元には、キャメル色のステンカラーコート、紺のコールテンジャケット、薄茶でグレンチェックのスーツが残っている。全てをバイト代で購入できたので、それほど高くはなかったと思うが、今となってはプライスレスである。
といっても、当時の学生時代にスーツを着る機会は多くなく、大学卒業時の謝恩会など数回のみだった。社会人になってもタンスの奥にしまったままだったが、数十年ぶりに思い切って袖を通したところ、何とか着ることができた。それを着て、卒後30年目の同窓会に出席したところ、久しぶりに会った同級生達も皆一様に驚いた。
「VAN」を扱っている店が地元になかったこともあり、大学を卒業する頃には、市内に取扱店があった「J. Press」(脚注2)の商品を好んで買い求めるようになった。
冠婚葬祭にも兼用できる無地のチャコールグレーの三つ揃いスーツを、1985年(昭和60年)にようやく買うことができた。職場の同僚や先輩・後輩の結婚式が行われる時期と重なったので、このスーツは重宝したものである。中堅どころの医師になって、仕事量は大幅に増えた。それと反比例して身体を動かす機会が減ったせいか、お腹周りが増えていった。何とか体型を維持しようと努力したが、さすがにベストがきつくなってしまった。
アメリカン・トラディショナル・スタイルの代表ブランドと位置付けられている「Brooks Brothers」(脚注3)の創立100周年を記念して1918年に「ナンバー・ワン・サック・スーツ」が発売された。このスーツをいつかは着てみたいと思っていた。
1979年(昭和54年)に東京青山へ初進出したようだが、知らずじまいで時が経ってしまった。ある時、東京に住む友人からこの店の情報を得ることができ、ようやく手にすることができたのは、1995年(平成7年)であった。医師になって15年目を迎えていた頃である。実地臨床にも自信が持て始め、自分の所属する専門学会が主催する学術集会での発表も一般演題から、一つ上のランクとされるワークショップやシンポジウムでの発表を目指すようになった時期と一致する。同時に、各地で開催される講演会に演者として声をかけられるようになってきた。そのような場での発表は、臨床医にとって晴れ舞台でもある。トラッド派の最高峰と思っているこのスーツに袖を通し、「正装」の意識で登壇した。
発売以降型が変わっていないことも特徴で、着古されて肘や膝の部分が擦れてきても、同じ型番があるのでいつでも交換できる優れものである。
「VAN」から派生した「Kent」(脚注4)は、自分が医者になった頃には、地元で扱っている店がなかったこともあり、このブランドを素通りしてしまった。2005年(平成17年)の夏、一家で北海道旅行をした時のことである。札幌には大きな地下街があり、家内と娘に付き添って、ウィンドウ・ショッピングをしていた途中で、「Kent」の文字が目に止まった。30年近く、ずっと頭の片隅にあったスーツが目の前にある!思わず買ってしまったが、普段の旅行中に衣類を買うことはまずなく生涯ただ一度の経験となった。オリジナルではなく復刻版であることが残念であるが、致し方ないか。(写真1)
トラッド派の伝説的なスーツとの関わりを書いてきた。
いずれもシンプルな型なので、「没個性」と言われればそれまでだが、飽きがこないのが、長い時を隔てても着ることができる最大の特徴である。「断捨離」の時代にあっても、永く永く残っていく愛すべきスーツ達である。
◆ 「男」と「女」の違い
これらの二編を、これまで私のエッセイをよく読んでくれて、心地よい感想を書いてくれる同世代の女性数名に送ったところ、こちらが予想しているような反応を示されなかった。そこで、思い切って、知り合いの元ファッションモデルRさんにも送ってみた。
「反応が薄かった背景に、男性と女性の違いを感じました。男性は料理でも服でも何でも拘ると、自分の世界に入って質を追求するのに対し、女性は周りを気にする傾向にありますね」
以下、彼女の返信を続ける。
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モデルの業界では、周りとは違う一目置かれるような服装に心がけました。一般の職場では、上下関係のために着たい服が着れませんでした(先輩の方は着たい服を思う存分楽しんで着ておられました)、逆に、学生のリクルート活動では派手にならないようなダサいくらいの地味な服の指導を受け入れました ― つまり、それだけ周りを気にするということですね。
だから、女性と違って、男性の方の服装にまつわる人間ドラマは少ないかもしれませんね。
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最後に、こう添えられていた。
「自分が大人になって、おしゃれには無頓着であった父のスーツを見たら、なかなか良いスーツを着ていてかなり驚きました。親がおしゃれだと子は嬉しいものです」
我が娘もそう思っていると、信じたい。
脚注1:
VAN は1954年に登場し、日本にアメリカン・トラディショナル・スタイルを浸透させたが、残念ながら1978年に倒産した。
脚注2:
「J. Press」は1902年にアメリカのニューヘブンで創業(創業者はジャコビー・プレス)され、日本では1974年から購入できるようになった。
脚注3:
「Brooks Brothers」は1818年の創業である。「サック・スーツ」とは、箱型背広あるいは寸胴型背広を指し、英国では「ラウンジ・スーツ」と呼ばれている。創立100周年を記念して1918年に「ナンバー・ワン・サック・スーツ」が発売された。シングル、三つボタン段返り、ナチュラルショルダー、ボックスシルエットの背広で、ジョン・F・ケネディやオバマといった歴代の大統領も愛用した。
脚注4:
「VAN」から派生した「Kent(1963年~)」は、健康的で明るいアメリカのキャンパスルックである「VAN」に対し、英国的なトラディショナルルックを基に本格的な紳士服を目指した。「VANを卒業したら、Kentを着ましょう!」のキャッチフレーズ通り、キャンパスルックを卒業した若者を対象にした。