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苦しいことを苦しいと言えるのは幸せ

大学の時、過食嘔吐をしていた。

大学構内のいたるところに、菓子パンを買える自販機があった。1つ100円〜程度と安くて手軽に食べられるパンの自販機は、貧乏かつ食べ盛りの大学生にはもってこいだと、親切心から設置したのだろう。

そのパンの自販機に、狂ったように金を突っ込み、誰もいない狭い通路、校舎の裏側、人があまりいない非常階段で、狂ったように食べた。

そして必ず、苦い胃液とともに、全て吐き出した。

吐き出すと何かを成し遂げたような擬似的な達成感が得られた。

よく食べたのは「頭脳パン」。
四角くてフカフカして、ピーナツクリームとかチョコクリームとか、いろんな味のバリエーションがあった。

何が「頭脳」だったのか?
博士のイラストが描いてあったから、食べると頭が良くなる成分でも入ってたのか?
そんな成分あったら大量に摂取したいんだけど。
まあ当時は全部吐いてたから入ってたとて意味ないんだけど。

最近懐かしくなってネットで検索してみたけど、もうかつてのパッケージでは販売されていないようだった。

(なんと?頭脳パンは石川県のソウルフードだった…)https://pan-azumaya.stores.jp/items/60cc42752bf901497ed24d68

とにかく、それを食べて吐いていたことを今思い出して言えるのは、苦しいと思ったら「苦しい」とか、美しいと思ったら「美しい」、あと好きなものを好きとか、嫌いなものを嫌いとか、

言えること自体が幸せだってこと。

そういう、言語化ができなかったり、伝えられる人がいなかったりすると、自己表現が排水口のゴミのように詰まる。

私は詰まった排水管を掃除するように、頭脳パンを一旦詰め込んでは吐いたのだ。

何かを見て何かを感じる。それはそのまま消えていくことはなく、その先のシナプスを年齢に応じて鍛えていかないと、日々生きてることで自然に発生する心の動きが、上手く発散できなくて溜まっていく。それは早めに発散するに限る。

過食嘔吐はもう卒業したのだが、食べ吐き以外に発散する術を、しかし今も模索中だ。
その術は、年齢を追うごとに変わっていくだろうし、複数持つに越したことはない。
失ってはならないのだ。

頭脳パン、また食べたいなあ。
今度はちゃんと、美味しくいただける気がするんだけど。


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