もしも大寧寺の変が起きなかったら戦国時代はどうなっていたか
天文20年(1551年)8月28日から9月2日にかけて起こった変、陶隆房(後の陶晴賢)が主導となって起こし主君大内義隆並びに嫡男亀童丸(大内尊隆、おおうちよしたか)や三男大内歓寿丸(おおうちかんじゅまる)・元関白二条尹房(にじょうただふさ)・元左大臣三条公頼(さんじのうきんより)・大内義隆の継室おさいの方などが殺害された大内家家中の内乱です。
この内乱が起きたなったら大内家やその後の戦国時代はどうなっていたでしょう。
まず初めに山口に遷都されていたでしょう当時の山口は多くの寺社仏閣があり京都のように戦続きでも無かったためほとんど荒れていませんでしたそして大内義隆は朝廷に多額の献金をしていましたそのおかげで1551年には京都を含む「山城権守亅へ補任されていますこれは当時でも異例の事で山城国に住んでいないのにも関わらず、都を護り管理する役人に朝廷自ら指名しました例として1535年に義隆は後奈良天皇の即位儀式の費用に2000貫文を朝廷に献上していたようです。
このようなことからトーマス・D・コンラン氏は大内氏の強さを恐れたためのクーデターだったと述べています。
他には毛利元就が中国地方の覇者にならずに大内家の一従属勢力となっていました、何故なら大寧寺の変が起こった後に起きた三本松城の戦いにて毛利元就にも陶晴賢は出陣を要請していましたがなかなか兵を出さず、ついには晴賢から安芸国人に対しての出兵を要請する密書を出しました、しかし安芸国人の取りまとめは毛利が行うという約束を違えるものであったためこれを機にし大内氏からの離反及び独立の動きが加速し5月12日に毛利は大内・陶と決別し、挙兵、電撃的に安芸の陶方諸城を落城させた。(防芸引分)
これが無くなるという事なので恐らくは毛利家は大内従属勢力であったでしょうし大内義隆が中国地方の覇者になったと思います。
教科書には織田信長・豊臣秀吉・徳川家康では無く尼子晴久などが天下人大内義隆と争った勢力として出てくる
織田信長は桶狭間の戦いで大きな兵力差の前に勝利したという事は後の日本でも語られるでしょうが恐らく教科書に出てくることは有りません何故かというと北条氏康の河越城の戦い(河越夜戦)も教科書には出てこないので恐らくは出てこないのではと思います他にも秀吉ももし仮に本能寺の変が起こって山崎の戦いで明智光秀を討ったとしても大寧寺の変が起こらなければ恐らく山口に遷都になっていたはずなので山口をおさえなければそこまでの影響力を持てなかったはずです秀吉がそこまで力を持てなかったのなると家康もそこまで大きな力を持てなかったはずですそれに対して大内義隆が大敗した第一次月山富田城の戦いは教科書にのると思います。
まだまだ他にも影響はあると思いますがかなり文字数が多くなったのでここで終わります