見出し画像

92歳で龍造寺家を再興させた・「龍造寺家兼」(りゅうぞうじいえかね)

龍造寺家兼は1454年、肥前国人、龍造寺氏13代当主・龍造寺康家の五男として生まれる。因みに龍造寺氏の中で最も有名な隆信の曽祖父が家兼である。
当初は分家である水ヶ江龍造寺家を興していたが、本家である中村龍造寺家の内部分裂や、当主の早逝で力を弱めたため、一門の長老である家兼が本家を補佐する事となった。ところが剛腹かつ智勇に優れていた家兼は、たちまち本家の実権を掌握し、主家の少弐氏の筆頭家老に上り詰めた。
1530年、大内義隆の家臣、杉興運(すぎおきかず)に、1万の大軍で攻められるが、家兼は筑後川の支流でこれを撃退した(田手畷の戦い・たでなわてのたたかい)。(この時家兼76歳)。
この戦いを機に、大内義隆にその実力を認められるようになり、義隆に少弐から離反して大内に従うように勧められる。家兼は、外様の家臣であったこともあり、大内氏が主君の少弐資元を攻撃した時に積極的に支援をしなかった。結局、資元は自害に追い込まれ、家兼は主君を見捨てた裏切り者という疑惑を受けた。ただその後も家兼は資元の子・冬向(ふゆひさ)に仕えており、家兼に謀反の意思があったのかは、疑問も残されている。
また、1538年の2月に剃髪し、剛忠と名乗る。
1545年、家兼が少弐資元を積極的に救助しなかったことを謀反による主君殺しと見て義憤を発した少弐氏の家臣・馬場頼周の策謀によって、家兼の2人の息子と4人の孫が悉く誅殺された。家兼辛うじて筑後国に逃れ、柳川城主、蒲池鑑盛の保護を受けた。家兼は、90を超えた高齢である事から厳しい追及を受けずに済んだ。
1546年、蒲池氏の支援を受けた家兼は老躯を押して再起のために挙兵、鍋島清房らがこれに呼応し、馬場頼周を討って龍造寺家を再興した。そして曾孫の胤信(後の龍造寺隆信)を還俗させ、後事を託すと、まもなく死去した。享年92

いいなと思ったら応援しよう!