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信長の才能を見抜いていた 朝倉宗滴(朝倉孝景)
1477年、越前の守護大名・朝倉英林孝景の八男として生まれる。
仮名を父・孝景と同じ、小太郎と称していたことや、朝倉家の通り字の「景」の字が諱の下にある事、諱そのものが曽祖父・教景、祖父・家景、父孝景が名乗っていた事から、嫡男として扱われていたと考えられる。
1481年、父・孝景が死亡すると、兄の氏景が家督を継いだ。これは当時5歳の宗滴に朝倉家当主は無理があるという判断だとみられる。なお、宗滴は氏景の子、貞景の時代から死去するまで事実上の朝倉家当主として、財務・軍事を執行していた。
1503年、敦賀城主・朝倉景豊の謀反により、宗滴は頭角を現した。正室が景豊の妹であった事から宗滴は、景豊派に加担するよう求められていたが、それを断るために幼少期を過ごした龍興寺に出家し、謀反の企みを朝倉家当主・朝倉貞景に密告し、景豊は謀反の咎を受け、自害を命じられた。この功により、宗滴は金ヶ崎城主として敦賀郡司に就き、以後朝倉家の軍務を取り仕切るようになった。
加賀を統治していた一向宗は勢力拡大を目論み、たびたび越前に侵攻していた。これは、時の室町幕府管領・細川政元と本願寺は親密関係にあり、本願寺が反細川の朝倉氏を含む北陸諸大名を攻撃するようになったのである。
1506年7月、加賀・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するために越前甲斐氏の牢人らと合流し越前へ侵攻を開始した。これを迎え討つために宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川(くずりゅうがわ)一帯で対峙した。これが九頭竜川の戦いである。この時一向宗勢力は30万(諸説あり)、対して朝倉軍は1万1000ほどであったと言われる。8月6日に宗滴は奇襲を仕掛け一向宗の兵は20万以上討たれ、朝倉軍は勝利を収めた。
1517年、若狭守護・若狭武田氏の援軍として若狭・丹後に出陣。若狭逸見氏と丹後守護代・延永氏の反乱を鎮圧する。
1525年、美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制するため、六角氏と協力して小谷城に出張る。しかも、5ヶ月にわたって小谷城の一角に「金吾嶽」を増築、在陣し、六角氏と浅井氏の調停役を務めた。この時宗滴は亮政をよく助けたため以後は浅井家・朝倉家は固い絆で結ばれた。
1527年、近江に逃げていた将軍・足利義晴と管領・細川高国の要請で上洛し、三好勢らとの戦いで勝利を収めた(川勝寺口の戦い)。
1528年、京都から撤退したため、孤立した高国は流浪の身となった。だが、これらの宗滴の活躍により、朝倉氏の地位を盤石なものにするとともに、中央での発言力も確固たるものとした。
1527年に宗滴は養子の朝倉景紀に敦賀郡司の職を譲っているが、軍奉行は引き続き務めた。
1531年、加賀の内紛に乗じて能登畠山氏と共に加賀へと出陣、手取川まで軍を進めるも途中で能登の軍勢が壊滅したため撤退。
1548年、若年の義景が当主になると、義景を補佐した。
1555年7月21日、長尾氏の長尾景虎(後の上杉謙信)に呼応して、加賀一向一揆を討つべく加賀に出陣した。7月23日に加賀に入って南郷・津葉・千足の3城を攻撃し1日で全て落とした。7月24日には江沼郡に入って焼き討ちし、大聖寺付近の敷地山に本陣を置いて持久戦の策を採った。だが一向一揆側も朝倉軍に反撃し、一進一退のまま勝負はつかなかった。
これが最後の出陣となり陣中で病に倒れ、一族の朝倉景隆に総大将と朝倉軍を任せて一乗谷に帰還した。宗滴は手厚い看病を受けたが、9月8日に一乗谷にて病死した。享年79
宗滴は信長の才能を見抜いていたという。死ぬ直前に「今すぐ死んでも言い残すことはないが、後三年生きたかった。これは命を惜しんでるとではない、織田信長の行く末を見たかったのだ」。と言い残している。