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今〇〇の異名を持つ戦国時代の人物達・前
1人目は今義経・相合元綱(あいおうもとつな)
相合元綱は毛利弘元の3男として生まれる、毛利元就とは仲が良かったと言われている。
有田中井手(ありたなかいで)の戦いでは元就の要請を受け勝利に貢献した
1523年7月に毛利家当主、幸松丸がわずか9歳で死亡すると元就が毛利家当主となったが元就による家督継承をよく思わなかった一部家臣団は元綱を担ぎ上げ元就を誅殺しようと計画するが、事前に謀叛を察知していた元就によって元綱の居城船山城(ふなやまじょう)を攻められ元綱は討ち取られた。ちなみに、この様な経験から三子教訓状を出したとも言われてる。
2人目は今項羽・武田元繁(たけだもとしげ)(安芸武田氏出)
武田元繁は武田元綱の長男として生まれる1493年に明応の政変が起こり室町幕府10代将軍足利義材(あしかがよしき)が追放されその足利義材は大内義興(おおうちよしおき)を頼り山口に下向。この政変の混乱に乗じ、大内氏が安芸武田領へ侵攻を開始した。更に1499年には家臣であった温科国親(ぬくしなくにちか)が離反し、家中は大混乱となる。しかし毛利氏からの支援等も受けた事でなんとか反乱は鎮圧されたものの安芸武田氏は大内の服属を余儀なくされた。
1505年に元繁が安芸武田家を継ぐ。
1508年に大内義興は足利義材を奉じて上洛軍をを起こし、元繁もこれに従い上洛。上洛した義興は管領代として京都にとどまり元繁もこれに従い駐在を続けていたが、大内氏と主力が不在の安芸国では厳島神主家の後継者争いが起こっていた。
1515年に義興は鎮圧の為に元繁を安芸国へ帰国させる事とした、しかし元繁は尼子氏の後ろ盾を得て大内家から離反を決意、東西に分裂し、対立していた厳島神主家の東側に付く。そして、西側であった大野河内(おおのこうちじょう)を攻め落とした、安芸国での勢力拡大を図る元繁は厳島神社を有する己斐城(こいじょう)を落城させ、更に水晶城(すいしがじょう)をも落城させ、止まる事なく南に位置する桜尾城(さくらおじょう)を落城寸前まで追い込む。この動きに対し義興は、毛利興元(もうりおきもと・元就の兄)吉川元経(きっかわもとつね)に己斐城救出を命じ、毛利・吉川軍は武田方の山県郡の有田城を攻略。有田城を落とされた事で元繁は桜尾城の包囲を解く。これにより毛利・吉川と元繁は対立する事になる。
1516年に毛利興元が病死し興元の子、幸松丸が毛利家を継ぐと、その動揺に乗じて、毛利氏・吉川氏に占領されていた有田城を奪還する為に1571年に元繁は有田城攻略の軍を起こした。
10月21日、元繁は総勢5000以上の軍を率い有田城を包囲。同時に、猛将、熊谷元直(くまがいもとなお)に1500の兵を与え毛利・吉川軍1000余の迎撃に当たらせるが、毛利元就の用兵により熊谷隊は壊滅、元直も討ち死にした。まさかの敗戦に激昂した元繁が自ら主力軍およそ4000を率い、毛利・吉川軍を攻撃する。武田軍は優勢に戦闘を進めていたが、粘り強く抗戦する毛利・吉川軍を撃ち破るべく元繁が先頭となって川を渡河する武田に対し毛利軍が一斉に矢を放ち、矢が当たった元繁は落馬したところを討ち取られた。(有田中井手の戦い)
意外と文字数が多くなってしまったので後の3人今孔明・竹中重治(たけなかしげはる)(竹中半兵衛)、今楠木・志賀親次(しがちかつぐ)、今弁慶・木脇祐秀(きのわきすけひで)はまた日曜日にでも書こうと思います。