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#03 能力主義と社会と個人と・・・
社会の資源には限りがあります。何もかも無尽蔵に湧き出てくれば、きっとみんなが豊かになれる社会がやってくるのでしょうがそういう訳でにもいきません。そうともすれば、資源をいかに「分け合うか」を考えることが社会の課題となってきます。近代以前の社会では、封建制による身分に基づいて強制的な分配が行われていました。しかし、生産力の発展とともにそもそも必要なものを必要なだけ分配するのではなく、利潤を獲得するために生産することが目的へと転換されていきます。そうなってくると、資本への貢献度が高い人を優遇する社会となってきます。資本へ貢献すればするほど分配は大きく、貢献が低ければ低いほど分配は小さい。では、資本への貢献度とは何を基準にして測るのでしょうか。それは、個人が持つとされ、人によって違いのある「能力」です。これは実に巧妙な分配原理です。なぜならば、貢献度が高まれば高まるほどもらいが多くなるのですから、そのための努力を重ねれば報われるという前提な訳です。逆にこの分配が調整されていなかったら、不平等に感じるのが人間の心理というものでしょうか。しかし、「能力」とは努力ですべてをカバーできる訳ではありません。生まれ持った能力もあれば、能力を養える環境か否か、能力を発揮できるか否か。それにもかかわらず、私たちは多くの「能力」を求められ競争に巻き込まれていきます。いわば、市場で富を奪い合っている訳です。個人と社会のつながり方は資本主義の下では、基本的に「教育」と「就労」ですが、そこでも常に能力競争にさらされます。教育の目的は、教育基本法第一条において「人格の完成」と定められています。そもそも人格って完成するのでしょうか?誰にとっての人格の完成でしょうか?これは近代教育が優秀な労働力を供給することや国民意識を醸成することを目的にしていることの象徴です。教育はよりよい就労への踏み台とされ、資本に貢献する人材を育成するためのものへと矮小化されていきます。その競争を経て、労働力は能力に基づいて分配されます。そして、労働においても資本同士で資本内部で能力による競争が熾烈に行われます。能力競争で終えていく人間の一生・・・。そして、この「能力」は資本や国家への貢献を意味しているのであれば、私たちは本当に自由なのでしょうか?「経済成長に貢献する人的資本」を育成する教育から脱し、「元を取れるか」「格付けを高めうるか」という投資収益を図る就労から脱し、人間が社会発展に適応していくのではなく、ありのまま発達する人間に社会発展が対応していく社会を模索したいものです。でも紙幅の都合上、その話はまた今度―。
《参考文献》
①勅使河原真衣(2024)『働くということ:「能力主義」を超えて』集英社新書
②吉田武男監修(2018)『教育学原論』ミネルヴァ書房
③ウェンディ・ブラウン著.中井亜佐子訳(2017)『いかにして民主主義は失われていくのか?-新自由主義の見えざる攻撃-』みすず書房