あをによし~奈良へ② 興福寺の光と影
南都六宗の法相宗の大本山、興福寺は近鉄奈良駅の東、歩いてすぐの場所にある。この寺の絶頂期は寺の域を超えていたが数奇な運命に翻弄された。
藤原氏の祖、中臣鎌足は中大兄皇子と共に乙巳の変で蘇我氏を倒した人物でもある。晩年鎌足は山背国山階(京都市山科区)の陶原館に住んでいた。そこで大病を患うのだが、妻の鏡女王が回復を祈願し、669年邸内に山階寺を造営する。これが興福寺の始まりとなる。
鎌足が亡くなって壬申の乱を制した天武天皇が都を近江大津から飛鳥に戻す。この時山階寺も飛鳥に移り厩坂寺となるが、710年平城京遷都に伴い現在の場所、春日山に移って名も興福寺となった。遷都の詔を出したのは元明天皇だが、実際は右大臣、鎌足の息子藤原不比等が仕切った。藤原氏の氏寺である興福寺は不比等が平城京遷都と共に開基した。
興福寺は皇族や藤原氏によって伽藍が整備された。不比等が亡くなって興福寺造営のための役所が置かれ、国が造営を進めることになるので不比等の影響力の大きさは如何ばかりかと推察。不比等の娘、皇族以外で初の皇后となる光明子の発願により五重塔が造営される。
興福寺は平安時代に春日社の実権を持ち、大和国の荘園を殆ど独占し、一条院、大乗院は皇族や藤原氏が住職として入る門跡寺院となる。まさしく南都北嶺として比叡山延暦寺と並び勢力を拡大する。藤原道長と反駁したり、後三条天皇から荘園を奪われたり、度重なる火災、特に平氏の焼討でほぼ全焼したりと苦難もあったが、国や藤原氏の加護の下でその都度再建される。
鎌倉、室町時代において全国で唯一守護が置かれなかったのが奈良大和国。大和武士や僧兵の武力をもって興福寺が実効支配していた。
しかし戦国時代に入ると、信長や秀吉の検地により興福寺は春日社と共に寺領は減らされて勢力は衰える。江戸時代1717年の大火により衰退に拍車がかかりその後の復興は中々進まなかった。
1868年の神仏分離令により、別当を始め多くの僧侶が出家の身から俗人に戻り春日社で神職に就く者も多かった。90を超えた院坊は廃止となり、塔堂以外の寺領は取り上げられた。廃仏希釈で失われた施設もあり、五重塔売却の伝説も噂された。興福寺の管理は西大寺の管理となる。
広大だった興福寺境内は奈良公園になり、一条院は裁判所、大乗院は奈良ホテルになっているという。1881年にようやく再興を許可された。
春日社と共に藤原氏の勢力を擁して中世まで絶対的な権力を誇った興福寺だったが、官寺とは異なり藤原氏の私寺であったことも衰退の要因だったのかもしれない。広大な境内が上野公園になった寛永寺を思い出す。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 11月20日(水)】