京都 大原 三千院
京都市左京区の北東、比叡山の北西の麓にある大原盆地、山に囲まれた田園風景が広がっている。高野川に沿って若狭湾と京都を結ぶ若狭街道が通っている。昔は海産物が運ばれたようで通称鯖街道と呼ばれている。
平安時代の大原には朝廷の牧があって、木材や薪炭の産地としても知られていた。大原の炭焼きをうたった古い歌も残されている。鎌倉時代以降、薪炭売りの大原女、切り花売りの白川女、アユ売りの桂女は京の風物詩。
また、京都から政変などで大原の地に喧騒を逃れて来る皇族や貴族、僧侶もいた。安徳天皇の母建礼門院も平家滅亡後に寂光院に入ったとされる。建礼門院のお気に入りでもあった柴漬けの産地でもある。
この大原に天台宗の三千院がある。デュークエイセスの歌「女ひとり」でも知られる。歴史は古いのだが場所や名称が幾度か変えられてきた。
三千院の始まりは平安時代、最澄が比叡山延暦寺を建立した頃に遡る。
最澄は比叡山の梨の大木のそばにお堂を建て、自作の薬師如来像を安置して「円融房」としたのが起源とされている。京都大原ではない。
860年にこの場所に承雲和尚が伽藍を建て、この薬師如来像を本尊として「円融院」とした。また比叡山の麓、近江坂本の梶井に里坊も設けるが、1086年にはこちらが本坊となり「円徳院」と称した。平安後期の1118年に堀川天皇の皇子である最雲法親王が入って以来、皇族が住職として入るお寺いわゆる宮門跡となった。梶井門跡と呼ばれる。
1156年に京都大原に梶井門跡の政所が開設される。大原にいた念仏行者の取り締まりや来迎院、勝林院などの寺の管理を行った。大原とつながる。
1232年の火災により坂本の梶井門跡は京都市内を転々とした後、1331年に京都北部の船岡山の東麓へ移る。ここは淳和天皇の離宮、雲林院があった場所で大徳寺の南側に建てられた。今も梶井門跡の門、梶井門は開けずの門として大徳寺に残る。しかし梶井門跡は応仁の乱で焼失し、大原の政所が本坊となる。
江戸時代1698年に将軍徳川綱吉より京都御所に近い公家町の御車道広小路に寺領を与えられ大原の本坊を移した。
明治維新の廃仏毀釈で梶井門跡は取り壊され、品々は大原の政所へ避難し、1871年に大原の政所が本坊となり、これが今の三千院となる。その時に隣接し別のお寺であった極楽院を取り込んでいる。そのため大正時代に建てられた本堂には最澄作といわれる薬師如来像が安置され、吸収合併された極楽院は往生極楽院と改称され、国宝の阿弥陀三尊像を安置している。
庭園が美しく、山桜としゃくなげ、アジサイ、紅葉と四季折々の植物と冬の雪景色など日本の自然の美を凝縮したような風景に圧倒される。
そこかしこに見えるわらべ地蔵のかわいらしさに時間の流れが止まってしまう。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 11月4日(月)】