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【歴史京都探訪③】方広寺 京の大仏と鐘銘事件と善光寺

 京都国立博物館の北、豊国神社のすぐ裏手に方広寺がある。豊臣秀吉は死後、朝廷より神号「豊国大明神」が下賜され、神となり豊国神社に祀られた。豊臣家が滅亡し、家康により神社、神号は廃絶となるが、明治期には復興する。かつて方広寺は京の大仏を安置していたが、今はひっそりと佇む。

 方広寺 京都東山区の天台宗の寺院 山号はない
     豊臣秀吉が大仏安置のため創建 御本尊 廬舎那仏
     創建 1595年
     開山 蒲庵古渓        開基  豊臣秀吉

 方広寺で有名なのは、京の大仏と方広寺鐘銘事件の梵鐘だ。

 京の大仏は秀吉の発願で1595年に造営された。この時、東大寺大仏殿は1567年の松永久秀と三好三人衆の争いで焼失しており、それに代わる大仏を京都に作りたいということであった。
 大仏は4代存在したが現存していない。初代大仏は1年ほどで慶長伏見地震で倒壊、1612年に再建された二代目も50年ほどで地震で倒壊する。三代目は江戸時代130年間に存在したが、1798年に落雷で焼失、1843年に再建された四代目は、昭和の1973年に大仏殿と共に失火により焼失した。初代から三代は高さ19mというから、奈良の大仏の約15mよりも大きかった。
 特筆すべきは方広寺大仏殿の広さである。この一帯を大仏(殿)と言っていたようで、妙法院や三十三間堂も大仏殿の敷地内に取り込まれていた。明治の廃仏毀釈で境内の殆どは収公されてしまい、現在の敷地規模となる。「国家安康」の梵鐘の鐘楼も壊されたが後に再建、方広寺西門は東寺へ移築された。今の方広寺本堂は、かつての妙法院の脇寺日厳院の客殿。京の大仏は奈良の大仏、鎌倉大仏と共に日本三大大仏と称された時代もあった。

 方広寺鐘銘事件はドラマや映画でもよく取り上げられる。
 秀吉の死後、豊臣秀頼は京の大仏を再建するのだが、その際に新たに造られた梵鐘に刻まれた銘文に問題が生じる。南禅寺の文英清韓が書いた鐘銘文の中に「国家安康」と「君臣豊楽」の言葉があり、家康の文字を分けて呪詛しているのでないか、豊臣を君主として楽しむという裏の意図があるのではないかと徳川側から異議があり、これが徳川と豊臣の対立の一端となる。そして大坂の陣により豊臣家は滅びることになってしまう。
 この事件に対する考察や評価は江戸時代から多々あるが、この時、既に江戸幕府を開き、将軍職も家忠に譲り大御所になっていた徳川家康には誰も逆らえなかったいうことだろう。

 最後にひとつエピソードを。
 信濃の善光寺の御本尊は、川中島の戦いの最中に武田信玄に持ち出され、その後42年間に渡り戦国武将の間を遷座する。秀吉は初代の大仏が地震で倒壊した際に、この御本尊を難を逃れた大仏殿に招き移した。大仏殿は善光寺如来堂と呼ばれた。その後秀吉は病に倒れ、信濃へ御本尊をお返しするのだが、亡くなってしまう。京では人々が祟りを噂したという。
【REG's Diary   たぶれ落窪草紙  2月28日(水)】

 
 

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