あをによし~奈良へ③ 聖徳太子の法隆寺 王家の断絶
法隆寺は奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子ゆかりの寺として知られる。JR大和路線法隆寺駅から徒歩20分ほど、奈良交通バス法隆寺前で下車。
聖徳宗の総本山で御本尊は釈迦如来。聖徳宗とは聖徳太子を宗祖とする仏教会派で昭和27年に法相宗から独立し、宗教法人として認可された。そういえば京都の清水寺も昭和戦後に法相宗興福寺から独立し北法相宗の大本山となっていた。
聖徳太子の父、用明天皇は自らの病気の平癒のため寺と仏像の造営を祈願したが実現を見ずに崩御する。用明天皇の妹、史上初の女帝推古天皇と聖徳太子は亡き天皇の意志を継ぎ607年に斑鳩寺(法隆寺)と薬師如来を造ったと伝わる。
法隆寺は塔、金堂を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍から成る。聖徳太子は601年に斑鳩宮を造営し、4年後に斑鳩宮へと移り住んだ。
法隆寺は創建のままの姿を残しているとされてきたが、明治時代に論争が起こる。日本書紀に670年法隆寺が落雷により焼失したという記述があったからだ。この論争は白熱し昭和まで続いたが、昭和14年の発掘調査で若草伽藍跡が発見され、これが創建時の法隆寺とされている。再建されていた。
再建時期は明らかではないが、様式や文献により現在の西院伽藍の金堂、五重塔、中門、回廊は飛鳥時代、経蔵は奈良時代、鐘楼、大講堂は平安時代の建造物として現存している。世界最古の木造建築群で間違いない。
聖徳太子は622年に斑鳩宮で逝去される。その後太子の叔母推古天皇も亡くなる。そして悲劇が起こる。聖徳太子の嫡子である山背大兄王と蘇我蝦夷が推した田村皇子との皇位継承争いが起こる。結果は田村皇子が舒明天皇となるのだが、蘇我氏の実権が息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿は舒明天皇の嫡子を次期天皇にするために中継ぎで女帝皇極天皇を擁立する。これで山背大兄王と入鹿は対立する。
643年入鹿の軍勢が斑鳩宮の山背大兄王を襲う。一旦は生駒山中に逃げるが、戦に民衆を巻き込むことを避けて斑鳩寺に戻り、そこで山背大兄王は一族もろとも自害する。聖徳太子の王家はこの場所で途絶えることになる。
夢殿を中心とする東院伽藍は、奈良時代に法隆寺の高僧行信がかつて斑鳩宮があった土地の荒廃に胸を痛めて聖徳太子を偲んで建てたものである。
法隆寺は世界遺産であり、文化財の数も日本有数、日本が誇る仏教寺院であるが、聖徳太子が大好きな私にとっては哀しいお寺でもある。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 11月21日(木)】