金沢には古風な品格を感じます。その理由は・・・
コロナ禍の最中、私は生まれて初めて金沢へ出かけました。そんな時に何やってるんだと怒られそうですが、そうそう家にばかり籠っていると体もなまるし、精神衛生上よくないし、かと言って近所や東京には行きにくい状況でもありました。結局、コロナ騒動の中で遠出をしたのは、まん延防止等重点措置の合間をぬって何度か金沢に出かけたくらいでした。コロナに感染することは一度もなかったことは付け加えておかないと。
金沢は素敵な街です。何か都に感じるような古くからの品格のようなものを感じます。名前の由来にもなる砂金が出る沢があるという伝承もあります。
元々は一向宗との結びつきが強かった様で、本願寺派の寺内町として経済的にも栄えていたようです。
しかし何と言っても前田利家公が入って加賀藩の繁栄の元を築くことになります。当初はかなり乱暴なこともしたようですが、一向宗への懐柔策も成功し、利家亡き後も、関ヶ原で東軍についた長男利長は戦後大大名となります。江戸時代には江戸、大坂、京都の次を名古屋と争うまでに発展します。
前田利家は秀吉の重臣であったので、利家が金沢に入ることで大坂や京都の文化も多くの人と共に移動してきたに違いないはずです。その人たちの親戚や友人のことも考えると、関西との行き来ややり取りはその後何代にもわたって続いたと思われます。
利家が入るのが戦国時代末なので、金沢の街はそれほど古くないのですが、何となく古くからの品格を感じるのは、関西の影響が大きかったと思われます。
加賀藩二代藩主の前田利常は、変人(徳川幕府から警戒されぬよう装っていたとも)としても有名ですが、加賀藩の基礎を安定させた賢い藩主でもありました。利家の四男ですが、母はまつ様ではないのです。利家が朝鮮出兵の最中に56歳で侍女との間にできた子なのです。流石利家公御元気!
この利常は三歳の珠姫と結婚します。この珠姫は徳川秀忠の次女、家康の孫、弟は家光。とんでもねぇーお方!!! 失礼。
利家の正室まつ様が江戸に人質として出向く見返りのようです。
珠姫は24歳で亡くなるのですが、利常との間に三男五女をもうけます。余程仲良しだったのでしょう。
彼女の果たした役割は加賀藩にとって、とても大きかったと思います。金沢には関西だけでなく、江戸の文化も入っているのです。
珠姫の菩提寺天徳院が利常によって建立されています。
【REG’'s Diary たぶれ落窪草紙 4月2日(火)】