冥途の一里塚
正月が来るたびに一休さんのことを思い出す。
正月(門松)は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
一休さんはお正月に頭がドクロの杖を携え、用心を叫びながら町を歩き回ったらしい。
数え歳は誕生日でなく元旦に皆の歳が一つ増えるので、お正月は生きて新年を迎えられたことを祝うのが普通だと考えるのだが、一休さんは一つ歳をとることはそれだけ死に近づくことを意味すると云うのだ。
その通りだね。特に齢を重ねると死がどんどん迫ってくる感覚は否めない。若い頃は自分が死ぬことを、理解はしていても実感はないからな。
一休宗純は室町時代の臨済宗の高僧だが、数々の仏教界の禁忌を破るかなりファンキーなお坊さんだったようだ。後小松天皇の落胤とも楠木正成の末裔とも伝承されるこの禅僧、飲酒や肉食だけでなく、男とも女とも・・・。
所謂風狂と呼ばれる「仏教本来の戒律から逸脱してもそれは悟りの境涯の現れである」という理屈に基づいていると思うのだが、アニメの一休さんのイメージとはちょっと違う。
室町時代の応仁の乱を経験した京都で満87歳まで長生きしたので、相当な骨太タフガイであったことは間違いない。
死ぬことを考えることを嫌う人たちもいる。縁起でもない!とね。
わからなくもないけど。死は絶対皆に平等にやってくる。どんな金持ちも権力者も死を回避することはできない。そう思うと死は特別なものではないのかもしれない。確かにこの世に生れ落ちた一つの生命が死を境にこの世から消えるので、当の本人にすれば最大のイベントと云ってもいいだろう。しかし、これは例外なくすべての人に訪れるのだから、恐れていても仕方ない。逃れられないのだから。
逆にこの世で生きていく権利を手にしたのだから、死が訪れるまでそれを謳歌しない手はないのではないかとも考える。もったいない。だとしたら死を意識することはかなり意味を持ってくる。死を考えることがどう生きるかに深く影響するはずである。死は時間的な期限なのだから。但し自分ではコントロールできないけどね。不慮の事故や自分で止めることもあるのだが。
自分がやりたいこと、見たいもの、会いたい人、行きたい場所など、死という期限を意識したり、お金や時間と相談したりして自分の人生を振り返り、もう一度組み立てることは人生を楽しむ一つの方法ではないだろうか。
正月に人生のタイムラインを見直すことは意味があると思いませんか。
※被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 1月1日(月)】