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【歴史京都探訪②】三十三間堂 破天荒後白河上皇の院御所

 京都駅よりバスで10分程の場所にある超人気スポット三十三間堂。とにかく歴史に興味がなかろうが、無理やり連れて来られようが、あの千手観音立像の集団を見れば誰もが黙って見入る。
 基本事項のおさらい
三十三間堂 天台宗 山号はない、院号として蓮華王院と呼ばれる
      現在は妙法院管理の仏堂 御本尊 千手観音
      創建 1164年      開基  後白河天皇
 先ずは後白河天皇。1155年に第77代天皇に即位した後白河天皇は3年で二条天皇に譲位し上皇となり院政を開始。上皇、出家して法皇として5人の天皇の院政を行い、忙しく乱世を立ち回った有名人だ。逸話を紹介すると、
〇保元の乱で崇徳上皇と対立、敗北し配流され讃岐で死去した崇徳上皇は日本三大怨霊の一人になる。この乱により平氏、源氏の武士勢力が台頭。
〇平家を木曽義仲に追い出させ、木曾義仲を源頼朝に討たせ、源義経に平家を滅ぼさせ、源頼朝に義経を討たせた。日本一の大天狗とも呼ばれる。
 若い頃は庶民の歌曲である今様に狂っていたようだが、天皇の後継者争い、平家の台頭、源平の争い、鎌倉幕府成立という激動の時代に、三度も幽閉され、30年に渡り院政を敷いた重要人物。彼はこの地で院政を行う。
 
 この地には平安中期に藤原為光により法住寺が建てられた。1032年に火災で焼失している。(蛇足 為光は藤原兼家の異母弟、藤原斉信や崋山天皇へ入内した忯子の父。法住寺は忯子を弔うための建立とも。光る君へ参照)
 その跡地に後白河上皇の院御所、法住寺殿が建立され、その敷地内に三十三間堂が平清盛の寄進で建てられた。その後法住寺殿は木曾義仲によって焼かれたが、三十三間堂は難を逃れる。しかし、1249年の建長の大火で焼失。
1266年に後嵯峨上皇により現存の三十三間堂が再建される。
 室町時代には6代将軍足利義教が手厚く修復を行ったとされる。
 今も法住寺は隣接する後白河天皇陵を守り、三十三間堂東隣にある。
 豊臣秀吉は大仏殿方広寺を造営し、後白河陵や三十三間堂も取り込まれ、土塀や門も整備された。その時の南大門と太閤塀が重要文化財として今も残されている。

 南北約120mの蓮華王院本堂(国宝)、柱間が内陣で33ある事から三十三間堂とも呼ばれる。内部には本尊である千手観音坐像(国宝)と千体仏の千手観音(国宝)は124体が平安、876体が鎌倉、1体が室町の造仏と言われる。また風神、雷神、二十八部衆像(いずれも国宝)など、見どころ満載の三十三間堂。池泉回遊式庭園でゆっくりと波乱万丈の後白河法皇に想いを馳せる。
 【REG's Diary    たぶれ落窪草紙   2月17日(土)】


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