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あをによし~奈良へ⑥ 明日香村 日本最初の寺院 飛鳥寺
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奈良県高市郡明日香村に建つ飛鳥寺。開基は蘇我馬子、蘇我氏の氏寺である。日本最初の本格的な仏教伽藍をもつ寺院として建てられたが、現存はしておらず、中金堂跡に建つ安居院という小寺院が残る。史跡としての正式名は飛鳥寺跡。法興寺、元興寺、飛鳥寺、名前がいろいろあって混乱する。
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日本書紀によると崇峻紀に法興寺の名前が初めて見られる。推古紀は法興寺と元興寺、皇極紀・孝徳紀では法興寺だが、斉明紀に飛鳥寺。天智紀はまた法興寺に戻るが、天武天皇以降は飛鳥寺となる。法隆寺も天武以前は斑鳩寺であった。769年天武天皇は諸寺の名を定めたと日本書紀にはある。
平城京遷都に伴い飛鳥寺も奈良に移り元興寺として現存している。
まだ史料が殆どない時代のこと、様々な論争が今も繰り広げられている。
創建当時の伽藍は南門、中門、回廊の中に塔を中心に左右に金堂、塔の後に中金堂という立派なものだった。200m×300mくらいの広さがあった。
伽藍の北には蘇我馬子の私邸説もある大きな講堂があった。
創建の時期やいきさつについて日本書紀と寺の縁起には異なる部分もあるが、588年崇峻天皇の時代に百済から技術者を呼び造営が開始され、596年推古天皇の時代に主要伽藍が完成したと伝わる。
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本尊は飛鳥大仏。現存で年代の明確な最古の仏像とされている。推古天皇が止利仏師(くらつくりのとり)に造らせた丈六(4.85m)の仏像。1196年に落雷による火災で塔や金堂を焼失して、飛鳥大仏も損傷を受ける。その後寺は衰退していく。室町時代には飛鳥大仏は屋根のないところに居た記録が残る。江戸時代の1681年に安居院が造られ飛鳥大仏も修復された。顔の一部、左耳、右手の中央の指三本が当初のものだという。
仏像はほとんどが撮影禁止だが、飛鳥大仏は撮影が許されている。
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飛鳥寺は大化の改新のコンビ、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の会で知り合った場所でもあり、寺の西には乙巳の変で殺された蘇我入鹿の首塚もある。
首塚から蘇我蝦夷・入鹿親子が住んでいた甘樫丘が目前に見える。
入鹿殺害の翌日、中大兄と鎌足の軍がここに集結し襲撃の機会を狙っていたが、蝦夷は丘の上の邸宅に火を放ち一族は自害する。蘇我氏は滅亡する。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 11月27日(水)】