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あをによし~奈良へ④ 天平の甍 鑑真和上の唐招提寺
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南都六宗のひとつ律宗の総本山唐招提寺。苦難を重ねて来日した唐の高僧鑑真和上は5年間東大寺におり、大仏殿に初の戒律を授ける戒壇を築いた。その後、新田部親王の旧宅を下賜されて759年に戒律を学ぶための修行道場を開く。それが唐招提寺の始まりとなる。
戒律とは仏教僧が守らなければならないきまりである。
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僧になるには戒律を遵守する儀式が必要になるが、奈良時代にはこれをせずに出家する者も多かった。僧は税金を納めなくてもよかったのだ。聖武天皇はきちんと制度化するために授戒ができる僧を探していた。日本側からの要請を受けて、唐では既に高僧となっていた鑑真が弟子たちに聞くと皆、尻込みをした。当時は海を渡ることが危険なことだったのだろう。そこで鑑真自ら日本へ渡ることを決意する。弟子21人も行かねばならない。
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鑑真の日本への渡航は難航する。渡航したくない弟子や鑑真の渡航を惜しむ者たちの反対などで中々出国できない。激しい暴風雨のため引き返したり、途中の島へ漂着したりで、鑑真は失明してしまう。最終的には渡航に難色を示していた唐の当局を欺いて出国し、10年かかって日本へやってくる。
鑑真は天智、天武両天皇を祖父にと持つ長屋王を慕っていた。
長屋王は次のような刺繍の入った袈裟を一千枚、遣唐使を通じて唐に贈っていた。その一枚を鑑真が持っていたのだという。
「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁
中国と日本には同じ山や川はないが、風も月も同じものだ。仏教を通じ
て共に縁を結びたい」日本は仏教興隆の国だと思っていたのだろう。
鑑真が渡来した時、既に長屋王は亡くなっていた。日本が招待しておきながら、鑑真和上はそれほど優遇されなかったともいわれる。
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唐招提寺は仏教僧の戒律修行の場であり、宗派を超えて学僧が集まった。鑑真和上の功績により日本における戒律制度が確立した。
763年に唐招提寺において、鑑真和上は仏教への熱烈な想いに溢れた76年間の生涯を閉じた。
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【REG's Diary たぶれ落窪草紙 11月23日(土)】