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東京ノスタルジー 御茶ノ水

 若い頃この街で働いていた。社会人になりたてで、まだ腹がすわっていなかった。今でもこの街に来ると気持ちがざわつく。でもこの年まで生きて来たぞと言いに来る。結局この街が好きなのだ。

 今でも定期的にこの街の病院に通う。楽器屋さんが沢山あり、文化圏でもある。大学病院や宗教関連の施設もある。

 徳川将軍綱吉によって、上野の林羅山邸にあった孔子廟を移転した湯島聖堂。将軍家斉の時代には昌平坂学問所も開設され、官学の府として儒教、特に朱子学を保護した。御茶ノ水に大学がたくさんあるのもうなずける。

 明治時代にロシアから渡ったニコライの正教会の拠点ニコライ堂もある。ロシア革命で本国からの支援を失い、関東大震災で被災し、戦時下の弾圧も乗り越え、今も神田駿河台にそのドームを見ることができる。

 神田明神へお参りに行く。神田明神下の岡っ引き「銭形平次」の18年続いた時代劇を若い人は知っているかな。

神田明神 随神門 昭和51年再建

 神田明神は、社伝によると730年に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(東京都千代田区大手町)に創建されたという。
 奈良時代に現在の将門の首塚辺りに創建されたのだ。平安時代に平将門が反乱を起こしたのが935年、940年に平定される。

 鎌倉時代、神社の周辺で天変地異や疫病が頻発し、将門の祟りではないかとなったのだろう。時宗の真教上人が手厚く供養し、さらに1309年に神田明神に平将門を合祀する。徳川家康が関ヶ原の戦いに臨む際戦勝祈願をし、9月15日、神田祭の日に勝利したという。

 ここまで神田明神は現在地ではなく、大手町の将門の首塚辺りにあった。

 1616年に江戸城の表鬼門を守るため現在の地へ移される。幕府により社殿が造営され、江戸総鎮守として幕府、庶民の崇敬を受ける。

 1923年の関東大震災で社殿が焼失、昭和9年に鉄筋コンクリートで再建された社殿は僅かな損傷だけで大空襲を生き残った。

神田明神 社殿

 江戸城の外堀の北にあった高林寺の境内の湧き水を将軍家忠の茶の湯用として献上したのが地名の由来らしい。

 昔は富士山がよく見えた神田山周辺に武家屋敷も多かったようだが、今は都心の学生街として賑わっている。

【Reg' Diary   たぶれ落窪草紙  2月2日(日)】

 

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