北陸道 越前、越中、越後これに能登、加賀が加わる
一月一日に大きな地震にみまわれた能登半島、あれから四か月が過ぎました。まだまだ日常生活に支障をきたしている地域もあるようですが、一日も早い復興をお祈り申し上げます。
そんな北陸地域ですが、北陸新幹線が敦賀まで延伸して、今年のGWは観光客も増えているのでしょう。多くの観光客が訪れて、お金を落とすことで復興の一助となれば、北陸にとってもメリットがあります。
以前から思っていたのが、越前、越中、越後と加賀、能登の関係です。むかし都のあった奈良・京都から見て、前、中、後は理解できるのですが、これに加賀と能登がどのように確立したのか知りませんでした。
越前、越中、越後は名前からすると同じ時期に成立したと思われますが、能登と加賀はそもそも名前の付け方が違います。
地元では当たり前のことかも知れませんが、他の地域から見ると気になる事って沢山ある気がします。
律令制より前の時代は、福井県敦賀市から秋田県庄内地方の一部までを「こしのくに」(古事記は高志国、日本書紀は越国)と呼ばれていました。実際には小国に分かれていたようです。また古代には出雲の影響もあったようで、ヤマタノオロチは高志国から来たと伝えられ、出雲式の墳丘墓も出雲にまつわる地名もこの地域に見られます。
持統天皇の時代(690年前後)に高志前、高志中、高志後に分かれます。
704年に律令制により各国の国印が鋳造され、越前国、越中国、越後国となります。日本の古い書物では読みは一緒でも違う漢字をあてるということはよくみられます。この国印により字が確定するのですね。
私の地元の信濃国と科野国の関係と同じです。
718年に越前国より能登国が独立、その後越中国に併合されるも、757年再び能登国は独立します。823年には越前国から加賀国が独立します。国司が派遣される役所、国衙の距離的問題も大きかったようで、行政職務が遂行しやすいように分化したようです。やはりタイムラグがあったのですね。
律令制により五畿七道の行政区画が整理されていく中で、北陸道は若狭国(福井県南部)、越前国(福井県北部)、加賀国(石川県南部)、能登国(石川県北部)、越中国(富山県)、越後国(新潟県本州)、佐渡国(新潟県佐渡市)に定まっていきます。
都の重要な北の守りとなる越前国、縄文時代の遺跡が多く残る能登半島、白山信仰の拠点、大伴家持が越中守として赴任、紫式部も父藤原為時の越前赴任へ同行し、曹洞宗大本山永平寺があり、親鸞は直江津に流され、日蓮も佐渡に流され、一向宗の一揆の台頭、木曾義仲、上杉謙信などの武将たちの戦い、前田家が繁栄を築いたりと興味深い話がまだまだ沢山ある歴史的にも重要な地域です。
今年は美味しい魚を求めて、旅してみようと思っています。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 5月6日(月)】