新ゲッターロボって「アンチゲッターロボ」だよね?って話~漫画版ゲッターチームの人物像読解を中心に
最初にして最大の根本。
新ゲッターは「この話では三つの心は揃うはずが無い」と「根本設定が言っている」
そう私は認識している。
「三人のうち竜馬以外はストッパーである」という設定は新ゲッターにしかない。(石川先生没後の派生漫画群などは全て確認できているわけではないので除く╱ダイナミックプロ公式監修作品である飛焔、ダイノゲッターには無い)
この設定は「ゲッターロボ」としては致命的、かつ新ゲッターの独自性を示すものである。
何故ならば、機体としても物語構造としても言ってしまえば「竜馬しか必要ないし、他二人は誰でも良い」。
なにせストッパーなので、ただ止められれば良い=協調性をはじめとした意見の一致はむしろあると困る、相互理解も必要無い、新竜馬が多少の憐憫なりなんなりさえ持てるならば心底誰でも良い、なんなら犬猫でも構わない。(それなら一定値で電気ショックなり機体自体に制限をかければ良い話でわざわざなにか乗せる必要が無いのでは?とは正直思うが)
ただの利害の一致などでは無く、相互理解なりを持って三人の気持ちが一致した上で竜馬一人だけの時以上の力を発揮しなければこの設定は崩れることは無い。
そして、そうであるために「あの三人の心は絶対に揃わない」という設定だと思う。
少なくとも作中に先のような根本設定を覆すようなシーンは無かったため、新ゲッターという作品は最低限でも「三つの心は揃っていない」事を前提に話すべき作品ではないだろうか。
製作者が何言ってるかは知らないけど。あれで三つの心が揃ってると主張するのは理屈として設定と噛み合わないんですよ。
また、この「誰か一人を絶対の主軸とする」という形はそもそも「協調性」というテーマではまず使わない。
「協調性」とは全員が主体性をもって譲り合うことを指すのであって、誰かに主体性を委ね意見を統一することは「同調性」といって別の話である。協調と同調を履き違えているのではないかという疑いが上がる。
そもそも物語筋の時点で漫画版のエピソードの反転構成ざっくざくなんですけど。
それとこの話、基本筋が永井先生の「手天童子」の反転じゃないですか。何が漫画版に一番近いんですかこの時点で真っ赤な嘘じゃないですか。(この辺に関してはじゃあ新ゲッターって脚本構成と意図はどうだったのか含めて別記事にあります)
では原典の東映版や漫画版などは?
と言うと「三人揃う事で100%の力を発揮する」(ゆえにチームワーク、協調性の重要さを示す台詞がある)と基礎設定に置いていた。「三つの心がひとつになれば」とはOPでも歌われ、一般的にも皆ゲッターと言えば「三つの心」を上げるだろう。
違いの方が取り沙汰されるが、漫画版と東映版は双方に影響しあっているし、なによりあの根本設定は非常に重要でゲッターロボという作品全体の核であり、絶対的なベースだった。(各所のインタビューを読むと端々に読み取れる)
漫画版は無印でのムサシの台詞に「死ぬ時は一緒といこうや」(大意でいうならお前達となら地獄を見よう、共に死んでも構わない)という命懸けの信頼が明文化されている。これを持って「三つの心」の成立としていただろう。(漫画版號チームでは最初の一歩間違えたら死ぬ合体が該当し、東映版にも30話元シナリオに似た台詞が存在した╱DVDBOXブックレット)(以下の記事に「三つの心」についてはまとめている)
これらを踏まえると新ゲッターのラストは必然だったのでは?とも思う。
新ゲッターはそもそも三つの心は揃ってない=新竜馬には他二人と共に地獄を見て一緒に死ぬという覚悟も信頼関係も無いから置いていく。
個人的には新竜馬には二人を背負うだけの覚悟もなにも無かったからひよったのではないかとすら思ってしまう。
あれが漫画版なら一人でなんて行かない。
漫画版號で竜馬が隼人と再会した時、真ゲッターに乗ってくれと言われた時、竜馬はそれが実質的には「俺と一緒に死んでくれ」という言葉だと理解していて一切それには言及しなかった。その前の號くんはそこに言及している描写があるにも関わらず、竜馬が隼人に問うたのは「本当にそうしなければならないのか」「お前にその覚悟はあるのか」という事だけだった。
隼人を置いていったのはそこに竜馬の思いや生きてもらわねばならない理由があったからで、もしそこに理由が無かったら「死ぬ時は一緒だ」と無印のあの時三人ともが思ったように共に行っただろう。
だから漫画版隼人は武蔵一人に行かれて「ひどい」と言ったし、竜馬に生き残らされて叫んだのだろう。あれは先ゆくもの達からの「お前は生きろ」という隼人は望まなかった願いであり裏切りなのだから。
本来の「ゲッターロボ」とは三つの心が揃うまでの話ではなく、揃っていることを前提に展開し、それ以上の人間の心を描いた作品であると私は考えている。
(これを踏まえるとチェンゲのラストはまだ妥当で、未来ある若者三人をお前たちは生きろと切り離す構図。漫画版號ラストの隼人が若者たちに置き換わっているのではないかと思う)
流竜馬の人物像について
と無印リョウ記憶喪失時の様子に隼人が言っているため「元来の流竜馬は理性があるしケダモノではない」と明記してあると同じではありませんか?
さて、新ゲッターにおける流竜馬はそもそも流竜馬の要素が無いというか、色んな特徴を他所から取ってつけたようだと個人的には感じた。
ゲッター線に選ばれた→一応タイールが言ってはいるが、それは竜馬一人を指したものではない。少なくとも號最後に真ゲッターに乗った三人、個人的には歴代ゲッター乗り全員を指していると思う。竜馬ひとりだけが選ばれたものと言っている媒体は漫画版東映版はおろか他のOVA作品にも無い。
読み取り範囲を拡大して漫画版號で誰が一番強く選ばれたものと読み取れるかと考えた時にも一文字號だろう。(調べたところ新ゲにも明言されていなかったため、そもそもが新ゲ設定を下敷きにしたスパロボ発祥設定の可能性が高い。しかし現在のネット解釈的にあまりによく聞くものでもあるためそのままにしておく。22.2.16)
根本的なことを言うが、「ゲッターロボ」における敵はゴールもブライもランドウも未来人類も、全員が全員とも「特別枠を変えただけの選民思想で自勢力以外を殲滅、支配しようとする」のに、「選ばれた特別な流竜馬がすごい」なんて選民思想でしかない話になるはずがないのは単純な理屈でわかるのではないだろうか。俺はいいけどお前はダメとか二枚舌だろ。
それをやるなら先の見えきった不毛な食い合いとして全員死んだ上で世界が滅んでくれなければダイナミック作品としても片手落ちである。漫画版デビルマン読んでないのか。
出自から特別な人間→アーク主人公の流拓馬だろう。
漫画版では終始竜馬が特別な人間だとは一度も言われていない。扱いも特別とは言い難い。
「自分と竜馬だけ生きていれば」という早乙女博士の台詞は、全て失いかけた戦いの中で人類存続の為の最後の手段がギリギリ残された事を示しているのであって、あそこにいたのが竜馬では無く他のゲッター乗りならその名前になっただろう。
人間性や人格→ゲッターではなく石川他作品「極道兵器」の主人公、岩鬼将造。もしくは永井作品である「ガクエン退屈男」の早乙女門土。(ただし自分の命をまな板にも乗せられていなかった新竜馬とは比較にもならない)
漫画版自体にガクエン退屈男からの影響が無いとは言えないが、本質的には真逆だろう。どうにも新ゲは本当はガクエン退屈男やりたかったけどゲッターの皮被せましたみたいな印象が強い。マジンガー版がSKL。
ついでに書くが新宿も東映版G26話でハヤトとその幼なじみイサム(漫画版G魔王鬼から影響を受けたと思われる回)を描く上で重要な舞台となっている土地であって、漫画版東映版共に竜馬に繋がるエピソードは無い。
そもそも初期案や企画案の変遷を辿り、東映版を見れば確定できるが、漫画版においても流竜馬の出身地は九州であり、東京出身は隼人であっただろう。
*この辺に関しては実は門土は表層だけで本質は「美堂竜馬」であったと考えればおかしな設定乗っ取りも含めて説明がつくがそれはもうひとつの考察記事に記載した
新竜馬の目上に敬語を使わない、他者に理由無き暴力を振るうことを厭わない、死などへの倫理観に欠けている……これらの要素も東映版はおろか漫画版にも無い。
漫画版竜馬の人間性
漫画版竜馬は父の遺影を抱きかかえ「父親の仇討ち」のため空手大会に殴り込みをかけるシーンから始まる。
そんな衝撃的な登場の後、生家であろうあばら家で、生き方を教えてくれた父を亡くし、父と目指した武道すら既に今の世には無いと自分の存在意義を問う彼の姿は非常にストイックかつ孤独で、これが流竜馬の人物背景となっている。ガチガチの昭和硬派男子がこの時点で察せられる出自であるが、新竜馬にはまずこれが無い。
余談になるが竜馬どころか石川作品全体でもシリアス筋における主人公の殆どが硬派系で、特に愛した存在にはいっそ愚直なほど一途な男前タフガイがあの血筋である。
漫画版竜馬はその生死をかけるまでの極端な実戦空手を叩き込まれた生育環境と「強くなることこそが男の生き方」「武道こそが男の人生だ」という父の教えから基本的に闘うことを躊躇わず、生きる為に死力を尽くすが、それが向かう先は無作為では無い。
(校舎エピ冒頭の犬のシーンくらいしか彼が一見無意味に暴力を振るうシーンは無いと思うが、あれも厳しい修行の一環で野犬と戦わされたという点から準備運動的な何か、これから生死をかけた厳しい戦いがあるという予告描写の可能性がある)
流竜馬が過激な暴力を持って戦う場面は早乙女博士からの物騒なスカウトもだが生きるか死ぬかの極限状況ばかりで、そうでなければ自他問わずに行われる理不尽、不条理、尊厳を踏み躙るような外道や非道を前にした時に苛烈な怒りを表し、それを打倒する。過激な台詞を叫び敵を打ち倒す彼の顔は一見笑っているように見えて特に無印やGでは八割方冷や汗か脂汗を浮かべ、その前後文脈を読めば尚更に切羽詰まっている。
そこに死を目前にした闘いへの高揚(本能、人間の生理反応も含まれるだろう)は感じても、暴力を振るうこと自体への愉悦があるかといえば……必要以上に痛め続けるなどの描写も無く、描かれていたのは生死紙一重の中で必死で抗ってる姿にしか私には見えなかった。
鬼と勘違いして人間を殺してしまったと理解した時の反応も漫画版には描かれている。
撃ち殺した時になぜ確かめなかったのか、と言えば、竜馬は人間がそんな非道を働く訳が無いと思っていたからだし、「敵と判断したら躊躇うな」という無印最初の早乙女博士が達人をその手に掛けた時の一連の流れが根底にあってのものだろう。
非道や外道に対する真っ当な怒りやそうした反応は、竜馬自身にモラル、倫理観が無ければそうは描かれない。
これは無印最終盤、自分達にも理由はあったと嘆くゴールと決着を着けようとする時の台詞である。
その直前、恐竜人類はその存続のためにゴールひとり残して撤退、ゴールは仲間から見捨てられる形となった事を理解した竜馬と隼人は一度は彼にもう戦う力は無くそのままでも死ぬだけだと見逃そうとでもするような会話が入る。しかしゴールの独白で相手の立場も心情も理解し、最後まで帝王として、そしてはじめて対等なゲッターの宿敵としてあろうとした彼のプライドを受け取って、例え同情の余地があろうとお前は許されない事をした、と犠牲となった数多の人間を背負って彼らはゴールと正面切って対峙した。その時の台詞。
それゆえ結末がああなった事に激昂し、終わった後には敵であったにも関わらず悼む様なゲッターの姿すら描かれる。
17か18歳にしてこれだけのことを理解し「申し訳が立たない」という言葉を使って数多の犠牲との因果関係、正論の末の結論としてお前は許さないと語り、敵のプライドすら受け止めようとする。精神的に習熟しすぎているのでは無いかと思えるほどそこに見えるものは複雑で、けして彼らが単細胞な訳でも他者に理解を示さない訳でも慈悲や情が無い訳でもなく、倫理や道徳に欠けている訳でも無い一例ではないかと思う。案外彼らのこういった面は派生作品には描かれず、また語られないが。
(人物は異なるがアニアク最終話における隼人の対ザウルスチーム時の様子はこれに近かったという見方もできるかもしれない。あれはいたぶるような描写などではなく、一度は制圧し猶予を与えたが、それでもとなったから相手を認めて本気でトドメをさした、と)
東映版も同じだが、私は竜馬のおっかなさは「真っ当な倫理観や正義感ゆえのド正論で真正面からぶん殴る苛烈さ」「それを支える恐ろしいまでのメンタルのタフさ」にあると思っている。70年代神谷明声の似合うこと似合うこと。
よく漫画版竜馬は東映版竜馬とは正反対と書かれているが、東映版竜馬は九州出身で厳しい父に育てられたという背景を持ち、昭和硬派系九州男児をベースにしていた。案外荒っぽかったりはすっぱな口調も使うし、ド正論で真正面からぶっ叩く苛烈さ、惨劇を前に折れないタフさなども持ち合わせており、むしろ東映版を知る事で漫画版のイメージ補間になったと個人的には感じた。
(後に考察を進めたところ、石川先生は東映版と共通する原案を大事にされてキャラを描いていた、相互に要素を拾うなどしていたとも判明した。正反対とは明確な誤りであり、むしろ一番近いのが東映版であっただろう)
目上には敬語を使い、子供たちにも丁寧に接する。頭が良いと取れる描写も散見される。
確かに言葉使いは荒っぽいが汚い言葉も使わない。よく見るので「穴があったら突っ込むのが以下略」の台詞が漫画版に無いか探したが初出まで遡っても見当たらない。
総じてチンピラヤクザみたいな思考回路と語彙をしてる新竜馬と漫画版竜馬とはまるで違うという結論しか出せない。
(そういえばアニアクも最後にポロッとヤクザ用語がいきなり出てきて違和感を覚えたのだけど、ネオゲといい新ゲといい一号機乗りをまとめてヤクザ解釈するのは個性が消えてて微妙だと思います)
余話:石川作品全体が持つ傾向~グルグル目と狂気について
ところでそもそもの話なのだが、漫画版のいわゆるグルグル目は「追い詰められた極限状況」に置いて頻繁に描写される。いわゆる石川笑いも同様で、あれらは精神的に多大なストレスがかかってるだろう状況や、生きるか死ぬかみたいな時や、尊厳を蹂躙されたような光景を前に時として凄まじい怒気と共に表れる。
個人的には石川笑いのわかりやすい典型例だと後年の物だが「柳生十兵衛死す」二巻をあげたい。地獄のような惨劇が起こった集落の描写後に十兵衛が見せた表情。あそこには凄まじいまでの怒りやなにかがあるのはその前後の流れから明確ではないだろうか。(あれは限界まで歯を食いしばった様子では無いかという意見も聞いた)
あれらは追い詰められた人間のガチガチの正気のままの、理性や人間性を保つがゆえにいっそ狂気じみたものであって、理性が吹き飛んでヒャッハーしてるなんて描写では無い。
そういった主旨のものであるので普段からあの瞳であることも基本的にあり得ない。石川作品を何冊か読めばわかるだろうが理性ある人間の通常の瞳はアップでは東映版ゲッターでの瞳の書き方によく似ていて、引きではそれを簡略化するのでハイライトがひとつふたつ入るものとなっている。
(下記ポスト参照。なお、これを理解した描き方をしているかどうかで漫画版を読んだことがあるのか、読んだことがあるならその理解度まで、表情まで含めれば尚更一目瞭然となっている部分でもある)
さらに言うなれば、石川作品のグルグル目の発祥はおそらく石川作品では無い。デビルマンなどの永井作品初期には既に見られる描写である。そのため、あれが石川作品の特徴だという事自体に私は首を傾げる。(もしあの表現が永井先生の元でアシスタントしていた石川先生が描き始めた物であるという確証があるなら別だろうが現状私はそのような話は読んでいない)
ゲッターロボから石川作品を23年現在電子書籍で90冊は読んだが、石川先生の作品の多くは徹頭徹尾、鉄の理性、正気で持って地獄に抗うゆえに狂気じみている。
ゲッターならば竜馬はとんでもないメンタルのタフさでもって蹂躙されたもの達の怒りを体現する節があるがそれも真っ当なモラルを背景としたものであり、片や隼人は他者を犠牲にする事に少なからずの痛みがある事も描写されながら人間外じみた自制心で持って合理という面からの理性を体現しようとする。言えば彼らはモラルや理性の権化であり、それゆえ人類という種の存続のために身を捧げ戦い続けた。
(という背景があるためにアークで見せられる未来世界は「何かが歪んでいる」という事でもあっただろう。アークに関しては別記事に考察をまとめている)
最初から人としての倫理観のネジが外れて理性が無いのは極道兵器など限られた数作品とギャグ作品くらいでもある。
余談だけど新ゲッター好きならゲッターじゃなくて極道兵器とか、むしろ永井作品のガクエン退屈男を始めとした作品辺りが好きだと思いますよ。私も嫌いじゃないですけど。
神隼人の人物像について
何から書けばいいか困惑するほどツッコミどころしか無い。
という台詞が存在しているため、素直に読めば隼人は號が罵ったような人間ではないだろう。
はじめに石川先生が描かれたLDBOX二巻のイラスト二枚が石川先生が思う「神隼人」の象徴的な姿だったのではないかと私は考えているためそれを置く。全体像を撮影できているわけではないが雰囲気は感じ取れるのではなかろうか。
ゲッター線に魅入られた(どうも日本語としておかしいが。念のために書くが「隼人がゲッター線に魅入られた」と書いた場合、正しくは虜になっているのはゲッター線の方である。本来は隼人←ゲッター線という構図を指す言葉となる)→99年號サーガ版単行本巻末の作者本人によるエッセイ漫画で真の内容について「隼人だけ冷静に周りを見ている」とある=最低限真終了時まで正気と思われる。號でも狂気に憑かれているような描写は見当たらない。また、ゲッター線に執着した描写も無い。そもそも、なんらかの力を求めた描写から無い。(アークだけ様子が多少おかしいようにも感じられるが、それだけを根拠とするのは如何なものかと思う)
彼が戦う理由、ゲッター線研究を続けた理由は漫画版真において「失われたもの達を無意味にしないため」と明文化もされている。このシーンで彼は「自ら」失ったもの達の為に戦い続ける事を選択するが、新ゲッターでは早乙女博士から諭されたからのようになっているのもどうかと感じる。これに関しては新弁慶の項でもう少し詳しく書くが。
無印の「ゲッターと一緒に死にたかった」を漫画版でも新ゲッター解釈を適用する理由としてよく聞くが、最初に書いた三つの心の意味やあのシーンの文脈を踏まえればそういった意味では無いだろう。
魔王鬼エピソードでの竜二の言葉もあるが、あれも文脈的に「隼人が求めていたのはゲッターの力では無かった」という話である。
更にいうと彼が自分の命を投げ出そうとしたのはゲッター線とは無関係な場所にも二回ある(特にGアトランティス編での自決未遂は周囲にゲッターロボすら見当たらないウザーラ内部である)。
もし執着しているならば無関係な場所で死を選ぼうとした事も、真の後に封印した事も、真時点から開発していたゲッター號がプラズマ駆動なのもおかしくはないだろうか?
っていうかゲッターロボっていう機体自体に思い入れがあったのは武蔵ですし、隼人はゲッター線に執着していたなんて読み取れるところがマジでひとつもありませんですけれども。
竜馬への嫉妬だかなんだか→ 新隼人の核になっているだろう「何故お前なんだ」もよく漫画版にも通用するベースにして語られるように思った為に初出を探したが見つからない。(なお先の竜馬の台詞もだが調べたのはスパロボアンソロ7冊、ジェネレーション、総集編雑誌、サーガ版単行本、電子書籍)
そもそも、漫画版も東映版も、竜馬が隼人になにか激重感情でも持っているのかという描写の方が余程多い。最初に書いた號のラストにしても「死ぬときは一緒だ」と誓い、実際そうするつもりだった親友を生き残らせるために置いて死地に向かう時点で竜馬の感情の方が重く感じるだろう。
漫画版においては武蔵の加入後に竜馬が自分と隼人は同じ境遇かのように語るが、実際のところ早乙女博士と結託して隼人をなんの説明も無しに連れ去ろうとした挙句敵の襲撃があったためとは言え有無を言わさずゲットマシンにぶち込んだのは竜馬であり、その際隼人は混乱ドン引き呆然と言った様子で、竜馬が勝手に隼人を運命共同体と見込んだような描写である。そんな隼人からすれば誘拐事件じみて心証最悪だろう始まりにも関わらず二人は大層仲が良かった。
漫画版真での研究所を去ることを決めた竜馬からの「俺とお前は根本のところで違うのさ……だから面白い」という会話が石川先生が考えた最終的な二人の関係性だろうと私は思う。
ゲッターから降り、研究所からも去ると決め、意見の相違も理解してなお竜馬は隼人にこう言い、そして隼人もそれを「お前らしい」と微笑みまで浮かべてすんなり受け入れている。
……どう少なく見積もってもお互いを理解し合った親友にしかならないだろう。最初に書いた號再会時の会話もそうだが。
それに隼人が竜馬に執着しているというならば、そんなにあっさり去ることを認めて、その上その後の15年間、號のあの最後に至るまで戻って来いとは言っていなかったらしい事もおかしくはないだろうか。
なお東映版はブロマンスかと目を疑うレベルで仲が良い。
(資料を集めるうちに「漫画版での竜馬と隼人は半ば同一人物であった」という結論になった。嫉妬もなにもあるはずがないだろうと思われる)
人の心が無いとかなんとか→まず、この項の最初に引用した渓の涙ながらの訴えを覆せる理屈がないと話になりません。
私は漫画版隼人の人物像はG魔王鬼エピが一番わかりやすいのではないかと思うし、以降最後までベースにあったのでは無いかと考えている。
隼人の校舎エピも三人の登場から非日常にいきなり突っ込まれた時の反応をそれぞれに比較すれば隼人が一番普通の人間らしい反応をしている。
唐突に仲間が目前で食われ驚愕し恐慌状態に陥り、混乱のまま敵を倒して失禁、メカザウルスに襲われて竜馬にしがみつき、そのままゲットマシンにぶち込まれてまた恐慌状態、最終的には茫然自失となる。普通の人間ならそうもなろう。同時に彼は最初にこれだけ怯えや恐怖を示した=その後はそれを全て自制しているだけともなる。
処刑シーンも直後の顔が竜馬特攻未遂時のような歪み方をしている=精神的に追い詰められてると思われる。
また、隼人は彼らを仲間や友人だと思っていた事が魔王鬼エピでは語られる。私には竜二達の言動は有能な独裁者に帰って来てもらいたいというにはとても違和感のある物だったが、そこは解釈の余地があるとしても、明文化されている以上、隼人にとって彼等は友人であり仲間であったのは疑いようもないのではなかろうか。
漫画版隼人は冷酷な言動だけではなく、少年を救い出した時にはその頭を撫で、5歳の翔からはおじちゃんと慕われ、その兄の信一からは皆を託され、婚約者も存在し、その婚約者が彼の指示で犠牲となり號が隼人を冷たい人間だと罵った際には渓から隼人には家族同然の人達が自ら前線に向かい彼に生死を託した事と一番悲しんでいるのは隼人である事を「何もわかってないのはあんたよ、バカ!」と泣きながら訴えられるなどなど、彼の情や優しさを表したものは細々とある上に周囲との関係性は良好であっただろうと思われる描写が多く、少なからず彼が周囲から信頼され慕われるような人物ではないかと読み取れる。
無印で記憶喪失の竜馬を気遣った様子も普通の人間が親友に向けるものとしては至って普通で、むしろあそこから竜馬が飛び出して行ったのが先とはいえ「このままじゃどうせ全員死ぬのだから一か八かでショック療法試そう」と流れるように切り替えられる生存の為の合理的思考とそれを成させる自制心が彼の恐ろしさであろう。
隼人に限らないが、彼らが一見酷いことを言ったりやったりする時はその前後文脈と表情も重要だと思います。
世界を破壊したいテロリスト→漫画版は「学校の不正に立ち上がった」という一文があるので、普通に考えて「不正が許せなかった」のであろうし、魔王鬼を読んでも何らかの思想や理想が彼らにはあったはずである。
無目的では無い。世界を破壊したい訳でもない。(最初からそのつもりであったならヒドラーから人間社会破壊学で思考を上書きしてやるみたいな台詞が出てくるはずもない)
彼等の理想の為に暴力手段を行使していた事実から漫画版隼人がある種のテロリストというところは間違いでは無いとは思うが、それなら理念くらい考えてはいかがか。
(あまりに見かけるので追記するが政治的な主張等が無いものをテロとは言わない。新ゲッターでは脚本の時点で日本語の使い方を間違えていてあれはただの犯罪者であり、殺人犯や愉快犯などの言葉が正しい)
あと左翼ともたまに見るが、ひとつとは言い切れない元ネタくらい調べるといいと思います。ついでにバリケードに「打倒独裁者」って書いてあるのも踏まえて後々の彼の言動や立ち位置も考えてみると良いと思います。
アナキストって語義的にはむしろ竜馬ですし、辞書くらい引いた方が良いと思います。
情勢が情勢なので追記するが、この記事を書いている私は「暴力でもって一方的に要求を通そうとすること」に対して肯定しているわけではない。権利や尊厳を軽視され、踏みにじられることには時として声をあげ抵抗することは必要である。しかし、それが武力をもって一方的に社会を変革しようというなら、その目的どうあれ悪にしかならない。
「ゲッターロボ」という話自体が「(恐竜側には彼らの言い分がある)侵略戦争」と「侵略への抵抗」であることも思い出してほしい。何を言おうが侵略戦争は悪である。それと同じく何を言おうがテロという行為は悪である。
美形じゃないとか変顔とか→漫画版號のキラッキラな號隼人を見た私にはそう言えない。言ってしまえば神隼人の顔は石川作品における知的美形記号の塊である。
疑うならば無印Gと同年の作品となる辻先生原作の「沖田総司」を読んでみるといい。隼人の顔が美形ではないというなら明確に美青年と言及がある沖田総司に同じ顔を使うのはおかしいだろう。
また號直前に描かれた魔空八犬伝にはほぼ號隼人顔そのままのくノ一すら出る。(大体隼人顔のキャラは何を見ても敵だしすぐ死ぬが)
校舎エピは確かに凄まじい表情で、あれだけ見れば面白くなってしまうのは同意するが、通して読めばあれも混乱や恐怖、茫然自失の表情であって、私は隼人が置かれたあまりに酷すぎる状況に笑えても、変顔などと軽く扱う気にはなれなかった。
確かに各作品主人公は竜馬で號で拓馬だが、神隼人は各作品において重要な立ち位置を占めるゲッターロボサーガにおける顔と言えるだろう。
人の心を持ちながら人類という種の存続のために過酷な戦場で文字通り全てを投げ打って戦い続ける、鉄の理性を体現する孤高のヒーローといった人物像が何故殺人鬼だのテロリストだのと嘲笑われなければならないのか。
各所の辞典系に新ゲッター解釈を正道だとして隼人を散々弄り倒した書き込みをした人間に言いたいが、いじることは好意表現ではありません。いじめといて好意表現とか時代遅れだし、単純に嘘だらけの誤情報拡散な上に面白くありません。私は騙されたと思って真剣に腹が立ちましたので今こうして憤懣やる方なく長文書き殴っています。内輪ネタやりたいなら今の私みたいにチラ裏だけにしてください。真っ赤な嘘を真実と偽って客観的情報を記載すべき場に書くなと言っている。
新弁慶について
誰???????????
いやこれは本当に真面目にわからない。外見がアークの獏なのしかわからない。あの変に一人だけ時代背景がおかしい出自描写(っていうか我が家は元道民で北海道にも見えんかったんだけどあれどこ?)からしても元ネタがあるだろうと踏んでいるのだが、石川作品や永井作品を読んでいる方に聞いても思い当たらないと言われてしまった。
取り敢えずゲッターにはこいつ去勢した方が良くないかとまで思うセクハラをするような人物は漫画版にも東映版にも存在しない。(ついでにいうと石川作品全体でもシリアス筋にはほぼ存在しない)
ああいう人間性の三号機乗りもいない。
新では作中「唯一まとも」と言われるが、漫画版の武蔵と弁慶は私が読む限りあの中で一番ズレていた。(凄惨な人類虐殺研究所の光景を見てもゲッターに夢中な武蔵、登場早々に隼人を攫い自分も酷い目にあわされた連中とは言え顔色ひとつ変えずに銃ぶっぱなす弁慶など)
まして正気のまま真ゲッターを破壊しようとするのは一号機乗りの號で、確かに三号機乗りの凱もまた破壊しようとするがその時の彼は精神崩壊している。
武蔵も弁慶も竜馬や隼人と仲が悪い訳ではないが、どちらかと特別仲が良かった描写も無い。なんなら漫画版真では竜馬と隼人に弁慶がちくちくいじり倒されているシーンがある。
考察が進んだ22年09月現在、武蔵の人物像は理解が進んだ。第二次世界大戦を彷彿とさせるモチーフを詰め込まれた彼はしかし一番「お国のため」という精神からは程遠く、自分の事が先にありがちな人間であったのが作中を通して周囲を愛するようになり、最終的には紛れない自分の意思で愛した世界を守り未来を託すためにあの最後へ向かうという話だっただろう。
……これからしても違いすぎる。本当に誰なんだ??????
どこか違う作品から引っ張ってきたのではないか、とは思うが……。
それと、まあこれが一番三号機乗りには重要かもしれないが、私は漫画版におけるムサシの死があまりに衝撃的だったので彼が生きている世界線は無いのかと探した事がある。
結果としては石川先生の著作だとサーガ版、学年誌版二つ、劇場版コミカライズ、烈伝のうち生きているのは烈伝しか無かった。(その烈伝は元が特典小冊子でパラレル世界のおまけ的内容)
東映版は勿論他の学年誌版などでもやはり死亡する。OVAも新ゲッターを除き死亡、あれだけ出ているスパロボですら生きているタイトルは稀である。
「ゲッターロボ」という作品において、(結果論ではあるが)ムサシの死は重要なファクターのひとつとなっている。そう結論付けるしかなかった程に彼の死は作品自体に大きく横たわっている。
正道であるならば、死なない方がおかしくはないか。
漫画版においてはこれは尚更で、ムサシやベンケイの死は、それまでの文脈から読み取れるものもあるが、それとは別で後年の真で明確な意味付けも行われた。竜馬と隼人の意見の相違のシーンである。
「ムサシやベンケイをはじめとするもの達の犠牲に無意味なものなど無かったはずだ、自分達がもっと意味を持たせるべきだ」
まとめれば隼人はそう主張し、ゲッター線研究を続けると自ら決める。アークに至るまで、神隼人が戦い続ける事の意味と明文化されたのである。
(その後の「ゲッターの行く先を見てみたい」の台詞を取って新ゲ解釈と結び付けるのが多いけれど、丸1ページ以上割いて明確に描かれた彼の戦う理由より、たった一コマわずか一言の台詞を取って隼人の項で書いたように他の言動と噛み合わない解釈にするのは普通に考えておかしいと思います)
だから新ゲッターは「殺せなかった」のだろう。
(名前こそ武蔵と弁慶だし、他二人はデザインそのままなのに、名前の元となった二人のどちらでも凱でも無く、ただ一人死が確定しなかった三号機乗りである獏を使ったのもそこから来ているかもしれない)
新ゲッターにおいてももし三号機乗りが死ねば、何らかの形で残された二人はその死を背負わなければならなかっただろう。しかし「三つの心は揃わない」事を前提としているあの話においてそうする事はできなかったのではないだろうか。
一見、死なないIFという良さそうな展開に見えるが、その実は「他人を背負わせたく/背負いたくはない」「深く重い感情や決意はここには無い」という、やはりこれも新竜馬が二人を置いていった時のような文脈に思えてならない。
総評
とまあ主要人物三人だけでも「全然漫画版と違うよね?? むしろ全部反転させるかすげ替えて捻じ曲げてるって考えた方が近くない????」となる訳だがどうして混ぜて語られるのか理解に苦しむ。
ゲッター線や世界観の解釈も新ゲッターどころか石川先生没後の他作者派生漫画まで混ぜて語られる事がある(情報の選択から間違っているのにまともな答えが出るはず無いと思います)ようで純粋な漫画版と東映版の解釈だけ読みたい私は検索が捗らない事この上ない。
勿論早乙女博士やミチルも全然違っている。
私は東映版のミチルさんとその描かれ方がとても好きです。女性をひとりの人間として尊重し、対等に扱うあの描き方は非常に現代的で「1974年に既にこんな事が出来ていたのか!?」と感銘すら覚えた。
どうしてむしろその辺退化してるんですか……アンチゲッターやるにしてもそこまで変える必要ありましたか……漫画版もエロどころか下品発言やセクハラすらほぼ無いですし(なんかやたらそういう言説目につくから他は違うのかと思って配信中電子書籍90冊全部読んだけどそういうのギャグ作品の2冊と極道兵器くらいだし、ギャグ作品ですら女性やマイノリティの権利や尊厳叫んでるのに何読んで言ってますの?)……登場人物の人間性や文脈を反転させるための処置かもしれませんけど、正直言えば原典を知って最初に新ゲッターにがっかりしたのはそこでした。新ミチルには触れぬ。
製作側がどう言っているかは知らないが、あの本編を見る限り「アンチゲッターロボ」では? と個人的には思う。
ある程度譲ってそこまでではないにしろ、根本設定や人物像、話の文脈(特に脚本時点で漫画版の反転構成してること)から言って少なくともあれを「ゲッターロボ」の正道として語って漫画版まで解釈しようとするのは「どちらもきちんと読み取れていない」としか思えない。
(漫画版アークの読解を進めた結果「拓馬の翻案としての矯正不可能なゲッペラー直行存在が新竜馬」という可能性はあると思ったが、そもそも「竜馬を描こうとした」らしいのに何故そうなるのかと思うし、他の人物も考えるにやはり「アンチゲッターロボ」の方が強い作品ではないかと思う)
大体漫画版ゲッターはとてつもなく重くてエグい戦争物では?
私にはあの話の特にGまではまるで特攻、自爆、自決をはじめとした戦中の過激な選択がどんな状況と心理状態で起きたのかを架空の戦記上で想像再現しているように思えた。彼ら自身の意思による選択であるとして全体主義的にならないようにしていたし、その犠牲を美化もしていなかったことが私には尚更に重かった。
元々が戦争の悲惨さや惨さを描いている作品で暴力の肯定と取れるような内容を描いた、それが何を意味するのかという点においては新ゲッターは最低なことをしたとも思うし、私は私の持つ信条からそれを肯定することはできない。
まして新ゲッターの前年となる03年にはイラク戦争が開戦していた。元来そのようなテーマ性を持った作品製作の真っ最中に実際に現実世界で戦争が進行していたのにそこまで考えなかったというのは苦しい言い訳に過ぎないだろう。
(ゲッターロボと完全に切り離した作品単体としての出来や解釈はともかくとして)
そうでなくても石川作品の多くは惨い地獄の中で生き足掻き抗い戦う人間を描いていて、主人公達が人間性を保つ故にその地獄が鮮烈だった。そんな話を描くのに、最初から人として何か欠けている人間を据えても仕方がないだろう。最初から何か欠けて他者の痛みに鈍感な人間が地獄を見るのでは重みも意味合いも変わるのだから。
あんなに重苦しい作品を、どうしたら新ゲッターのようなお気楽で頭悪いボダラン2みたいなヒャッハー系に読めるのか理解ができない(私はボダラン2が好きです)。
そもそも石川作品では本能に負けるものは悪(敵)か人間ではないか敗者であり、ダイナミック作品という大枠でも自分の命を懸けられないものは雑魚である。
ダイナミック作品の主役たる資格すら持たない歴代最弱のただイキってるだけのチンピラを同じにして欲しくはないというのが正直な胸のうちである。
石川作品は読み解きが複雑な部類で一種わかりにくく決して万人には刺さらないのも、ネット上で面白おかしく無責任に弄り倒して遊ぶなら尖った解釈が使われやすいのも理解はするけれど、せめても辞典などの万人が作品概要を知るためにアクセスしそこに書かれてる事は正しいだろうと思って読む場所で盛大に嘘並び立てないでください。誤情報の拡散とかそれ自体がモラルの話だと思います。
余談1:新ゲッターロボに関する主張での単純な誤情報について
余談で追記をしておくのだが、新ゲッターについて見かけた主張で誤情報だと思われる部分について知っている限りで。
・04年当時、既に犬夜叉やサクラ大戦など和風モチーフのゲームや漫画、アニメはその直前の00年辺りから沢山ありまして、和風モチーフ自体は一言で言えばブームの後追いに当たります
・縦書きのテロップというのも、少なくとも00年放映の本格的時代劇パロディアニメ「風まかせ月影蘭」が先行です(筆文字は前衛的だったかもしれない)
・史実人物の性転換ネタも「行殺新撰組」(00年、リメイク版02年)というアダルトゲームで話題になり、その後全年齢コンテンツで「萌えよ剣」(PS2ゲームが02年、OVAが03年)というのも出てまして、Fate(04年)より新ゲッターよりこれらの方が先に当たります。
更に言うなれば石川先生御本人が魔空八犬伝(97年には完結済)で使用された「上杉謙信女性説」とか、そもそも永井先生の初期代表作であるハレンチ学園の主人公「柳生みつ子」など発想自体は更に遡れるはずです
・一応レベルで書きますがロボットものにおける戦闘時の挿入歌はそれこそ始祖たるマジンガーからの話です
・また、04年当時には既に「セクハラとかダメだよ」という認識はありました。まして74年時点で女性を対等に描こうとしていたのが原典である以上、時代ゆえに許されていた、それが当然であったなどという描写ではありません
当時ちょうど二十歳だった私の記憶で照らし合わせるに、新ゲッターが特筆して前衛的だったかと言われれば疑問です。
むしろああいう悪趣味、露悪的な作品というのは当時多々ありましたので、「よくあったよね、こういうの」という奴です。
(新ゲッターの作られた00年代初頭はアダルトPCゲームがサブカルチャーの先端にあった時代で、そこでの大きな動向を知らないというのは考えにくいとも思います)
74年の原典よりも遅れた時代感覚であると考えれば、当時で一、二周、今なら二、三周くらい回って逆に新しいかもしれませんが。
正直に言えば新ゲッターという作品そのものが90年代から00年代において、2ch(現5ch)でよく見られた「多数派に反対しておくのがかっこいい」「暴力も礼賛できる俺」「下品な描写に喜べる私」とかのアナーキズム(といっても本来は無政府主義:「あらゆる権力や権威を否定して個人の自由を尊重する」という意味ですが、これを誤解したかなにかのオタクが一定数存在した)とかの延長にも思えます。
流行と他人の言葉にただ乗っかって脊髄反射で反発し、内実本能任せに好き勝手暴れているだけのムーブと見れば、永井先生が「ガクエン退屈男」で痛烈に批判した大衆の姿にも似ていないでしょうか。
(先述したアナキズムの中でも「暴力的アナキズム」に関しては由来がそれこそガクエン退屈男で批判した新左翼にあるでしょうし)
余談2:ついででスパロボについて
ここから先はネット情報を漁りまくったもののため、信頼度は低い情報での推測である。
竜馬の「ゲッター線に選ばれた」解釈がスパロボに頻出した挙句、30では「竜馬ひとりでいいなら新ゲでやれ。ゲッターで一人だけなのが許されるのはあれだけだ」などと弟が切れ味鋭くツッこんでいたので調べたが、その解釈の初出は05年のサルファ辺りで新ゲが出た直後のために設定を汲んだ可能性がある。
その後のZシリーズ以降の据え置き本筋スパロボは30に至るまで同じライターが書いていて、サルファのそれをそのまま根本設定だと思い込んだか、漫画版や東映版をまともに読まずにOVAだけ見て新ゲ設定で書いている疑いがある。
二次Zから先は参戦名義が全てチェンゲで、チェンゲは控えめに言っても色々とわからなすぎるし、ネオゲでは竜馬の出番は少ないし。
(とは言えチェンゲでも本編見る限り別に竜馬が選ばれたなどとは言っていない。ムックをお持ちの方にも確かめて頂いたがやはり無い)
「ゲッター線に選ばれた特別な竜馬」なんて普通にあの原作読んで考えたらまず出てこないだろう。先に書いたが選民思想が敵だったのに主人公がその塊になるとかダブスタにしかならない。ついでにいうとその設定があるだけで「三つの心」は揃わない。
本来の石川賢作品は世間一般に言われているより余程ロジカルで理屈も通っている。ゲッターに限らず石川作品全体でもそういったものをゴミ箱にぶちこんで「力があるからって好き勝手していいわけじゃねえ!」と人間のまま神に抗う話が多い。
個人的に、漫画版では最終的に竜馬がゲッター線に関わる重要人物のひとりなのは認めるが、あくまでただの人間のリーダーだったと思う。
ゲッター線が進化させる事を選んだのはあくまで「人類という種族」であるし、漫画版にしろチェンゲにしろ竜馬が選ばれたというなら號くんは? ともいつも思う。そこを無視して話をするのはどうなんですか。
また、漫画版を言うなら最終的にゲッター線に皆還るなら、そこに同化するのは遅かれ早かれの違いでしか無く、むしろ明確に「選んで残された」隼人も重要ではないかと思う。
「やっぱ神谷ボイスだよな」とか「旧作が良かった」なんて話は動画見てると散見されるが、単にキャストの違いだけじゃなく根本的に言ってること違う設定汲んでるんだからそりゃ昔からやってる人は違和感も生まれるだろうよ。とは、今回諸々調べて私が思った事のひとつである。
テキサスマック兄妹の変な訛り(東映版は普通、スパロボで訛り以降OVAなどにも逆輸入された)やゲッター線何でもできる説(ゲッター線と光子力エネルギーをマジンガーにぶち込んだらマジンカイザーになった設定がスパロボで出た辺りが何でもできる説の最初では?とも聞いた。そこに漫画版の謎のエネルギーである事などで拍車がかったのか?)と良い、案外スパロボの功罪は大きいのかもしれない。
ゲッター線については漫画版真時点で「爬虫人類含めた全ての生命は滅んではならない」という旨をゲッターに同化したらしいゴール達の亡霊が言っていて、これまたよく言われる「ゲッター線は人類しか守らない」というのも個人的にはどうかと思う。
石川作品自体がそれまでの布石を拾いながら読んでいくタイプ(わかりやすいところだとアーク拓馬母の台詞を、真で竜馬が隼人に何と言って降りたか思い出して読んでみるといい。あれだけではどうということもないだろうが途端不穏になる)なので、過去にそれとそぐわない明言がある以上、それは言いきれないのでは、などと私は首を傾げている。
更に言うとダイナミックプロ公式監修表記があるダイノゲッターや飛焔ではゲッター線が人類以外を選んで最低二股かけてると読める描写があるため、人類だけを進化対象としているとは考えにくい。
そもそも「進化」(ダーウィンの進化論)とは「適者生存」の論理であり、「優勝劣敗」ではない。正直多様性が根本になければならない理論でなに言ってんだ感がある。
新ゲッターの派生がスパロボであると書いたが、30のDLCで追加されたデヴォゲについて。
実はあの作品(とアプリで追加された牌もだが)、「ダイナミックプロ監修」の文字が表紙に入っていない。
そしてその中身だが、私にはスパロボ解釈の二次創作(逆転二次創作新ゲッターの三次創作スパロボの四次創作)としか読めなかった。原典のどこにも存在しないスパロボとネット解釈を主軸に「三つの心」も揃っていない。
「三つの心」は力貸してくれるなら誰でもいい元気玉じゃないですから説明が必要なのかと眉を潜めた。
私にはそれと原典のひとつたる漫画版のオリジンを主張するような終わりだけで論外であるのでこれ以上は言及しない。
スパロボが贔屓もするはずだよな、と30の身内贔屓と内輪ネタばかりの中身も思い出して納得はしたが。
ついでに記載するがあの作家コンビならラインバレルの方がまだ石川ゲッターロボに近いとも思う。
また、現在アプリのDDで展開されてるノワールというのも、恐らくは新ゲッターの派生である。
そもそもの話だが「感情に薄い」とか「倫理観がない」とか「従属を是として自分で考えない」=石川作品文脈で言えば理性に欠けている存在は「人間」足り得ないという文脈が石川作品には通して存在しているし、「三つの心を理解できない」。
「ゲッターロボ」は「三つの心」=「命がけの信頼」が揃うまでの話ではなく、それはあることを前提にそれ以上の人間の意思や思いを描いていた。
そのスタートラインまでの三つの心が揃っていない話は「ゲッターロボアーク」だけであることを考えれば「サーガ」ではなく「アーク」のパロディか、川越監督のゲッター作品、特に新ゲッターの登場人物たちの精神性があまりに幼かったため、それをクローンとして代替したようなものだと思う。
エヴァンゲリオンにゲッターロボや石川作品の影響があるだろうことを考えれば綾波みたいなものという考え方もできるが。
ガッカリしてしまうのはおそらく現在のスパロボ製作側は「ゲッターロボ」は何を描いていたのか以前に「三つの心」とはなんなのかの時点で理解に乏しいと思えてしまうことである。
(この辺は妙なことが複数あって、アルファ外伝など東映版名義の時にはきちんと三つの心まで理解して漫画版も取り込んでいた描写も確認できた。昔はきちんとできていたのに今は全然できていないとはどう言うことか)
それはそれとしてついでにボヤくが、いい加減チェンゲ続投長すぎるし、まともに原作再現しないわ設定はおかしいわ戦闘アニメ使い回すわ主題歌はかからんわ、挙句に主役機の真ゲッターも使わせないとかマジでチェンゲの意味が無さすぎるのどうにかならんのか。それで面白くなってる訳でもないし。そもそも三つの心すらわかってなくて敬意も何も感じられないあんな雑な扱いするなら出さんでよくないか?
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