育休とアイデンティティの揺らぎ
前回、育休に入る準備をほどいたnoteには、育休前の仕事やら家庭やら怒涛の慌ただしさの中に、心のざわざわを感じたまま、育休生活をスタートしていった様をまとめました。
それは、”空虚感”のようでいて、しかし、その言葉は、幸せな育児生活に入るのとは逆説的な響きを持つもの。
今回は、育休に入ったことに伴う、自身の根幹にかかわる問い=アイデンティティに生じた動きについてほどいていきます。
”自分であること”を支えてきたもの
学生生活を終え、働き始めてから18年、1度の転職を経て、不確かながら職業観なるものを獲得してから14年、仕事を通じて、自身の人生は本当に豊かになったと思う。私にとって「働く」とは、「誰かのためになること」、「楽しむこと」、「できることが増えること」。このすべての実感を味わい、いわゆる”働きがい”を感じ続けられる仕事生活に、私は感謝してもし尽せない。
また、順に昇進して大きな役割を与えられることになり、特に、4年前からのマネージャーとしての自身は、自己効力感を大きくしていた。
一方、育休のきっかけのnoteで書いたとおり、ちょうど、「四十にして惑い始める」孔子には申し訳ない状況が、そんなイケイケな私に水を差す。
昨日までの自分から今日に至り、今後、その延長線上の未来にしかならないとしたら、私はその人生に満足がいくかどうか。
延長線上の未来に疑問を感じながら、私は、自分で自分の人生の針路を決めていないのではないか。
”働きがい”は麻薬に似ている。なんでもできると高揚し、そして、仕事をもっともっとと欲しくなる。組織は「ならば」とさらなる仕事へと挑戦を促す。
別に組織も従業員もどちらが悪いわけではない。私は私以上でも以下でもないはずなのに、組織やメンバーに求められるがまま、与えられるがまま、疑いなくそれを受け入れ、自己と同一視し、それが”当たり前”の生活を送る。当たり前だが、それは”当たり前”ではないのに。。
「結局、頼りになるのは自分や家族しかない」、と単純な悲観論を述べたいわけではない。私が”自分であること”を支えてきたものは、勤め先を前提とした、期待されたもの、求められたもの、与えられたもの、決められたもの。すべて、私から見れば受動的な、組織への依存関係。
落合陽一さんは、疑いなく会社に雇用され続けることを「湯婆婆に名前を奪われる」と表現されている(『10年後の仕事図鑑』)。まさに言い得て妙。映画『千と千尋の神隠し』の物語の中で、千尋は名前を奪われた翌日に、自身の本名を忘れていることに気づく。
育休取得を機に、このことを考えるきっかけとなったのはいいが、自身の本名、本来の”自分であること”は、いったい何を表すのか。私にとって、四十を過ぎてもなお、アイデンティティにかかわる問いを一から始めることになる。
アイデンティティという底知れない課題
古代ギリシア時代、学問の始まりのときから現代に至るまで、アイデンティティは議論され続けている重要な概念。中でも、キャリアコンサルタントである自身にとっては、エリクソンの唱えた発達心理学における「アイデンティティの危機」がなじみ深い。特に、青年期・思春期におけるアイデンティティの危機において、アイデンティティを再定義するために、モラトリアムを設けることの必要性を主張したことは有名である。
しかし、何度も言及するが、四十を過ぎた男が、今更、どんな了見で、「アイデンティティの危機だからモラトリアムをください」などと主張すればいいのか。
さらに、エリクソンの発達理論によると、アイデンティティの発達は、他者の存在を踏まえた自身の社会化のプロセスとともにあり、それが完成した先にアイデンティティの確立があると言える。今回の私の場合、”本名を忘れる”ほどの行き過ぎた社会化を自覚し、その境界線を慌てて確認しようとしている状態に近い。
そんな、これまで得た知識を超えた状態は、自身に2つの課題をつきつけることになる。
組織への依存関係にない自分に向き合う
組織との新しい関係を築く
揺らぎに向き合う
上記で述べた2つの課題について、現在の私には明確な答えはない。しかし、育休を取得すると決めたからこそ直面したアイデンティティにかかわる課題に、育休期間を通じて答えを模索することを決めた。
今の自分がやりたいこと、ありたい姿を頻繁に内省し、足りない部分は学習と行動を繰り返す。それが答えを出すのに最適な方法かどうかは分からないが、薄靄の先に手を伸ばすのに、手の伸ばし方を考えることばかりに時間を費やしても仕方ない。
エリクソンによると、アイデンティティの危機においては、斉一性と連続性が完全に失われないようにすることが重要とされている。つまり、他者と自身が異なること、自身が過去から現在、未来に連続して存在していることを意味する。
私という連続がある中に、一定の非連続を認める、そんなアイデンティティの揺らぎを受け入れることが、本名に気づく第一歩かもしれない。