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「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.6

りさとの社会デビュー

退院して半年が過ぎたころの4月…
ようやく短時間(30分)の人混みを避けた外出の許可が出ました。

私は、まず初めにりさを公園に連れて行くことにしました。
誰もいない時間帯をねらって、あまり人が来ない公園を探しておきました。

そして決行の日!
4キロの酸素ボンベを持って、初めての公園にワクワクしながら向かったことを覚えています。

車で探索して見つけといた公園に到着しました。
まずは、「ブランコ」に挑戦!
りさを抱いて、酸素ボンベを背負って…
初めての「親子ブランコ」大成功です。
続いては、「滑り台」に挑戦!
階段をゆっくり登って、ゆっくり滑る…
何せ酸素ボンベを持ち、りさを抱いているので、転ばないように慎重です。
そして、「親子滑り台」も大成功です。
初めての公園遊びにりさは大喜びで、私も大満足でした。
でも移動も含めて私たちにある時間は30分だから、あっという間の公園デビューとなりました。

こんな具合に、ほぼ毎日30分公園に行って外遊びができるだけで、生活はもっと充実したのです。
でも、まだお友達と遊ぶことは感染を防ぐためにできませんでした。
そんな私たちの為に、友達がりさより半年前に生まれた子供を連れてきてくれて、窓越しのご対面をさせてくれたのです。
病院以外で会う初めてのお友達にりさは大喜びで、自分のクマさんのぬいぐるみをその子に見せていたことが思い出されます。

「りさも早くお友達と一緒に遊べるようになるといいね」

その願いは、まもなく叶う事になりました。

2歳のお誕生日前には、酸素も取れて外出もお友達と遊ぶことも許可がおり、本格的な社会デビューが始まりました。
公園に行って遊んだり、デパートに行ったり、いろいろなところに行って楽しみました。

でも、病気が治った訳ではないのです。
考えたくないけど、病気のことを考えると私の心はとても不安定になっていました。

プロジェリアの診断

穏やかな日常生活を送りながらも、私は病名のわからない病気に怯えていました。
そして、大きく私を不安にさせることがあったのです。
それは、りさの髪の毛が1歳半頃からどんどん薄くなって、2歳のお誕生日の時には全て抜けてしまっていたことです。
ドクターに聞いても、「生えてくるのかこないのかわからない」
2歳のお誕生日を迎えてもりさの病名は「プロジェリア」だとわからなかったのです。
でも、お風呂に入れる時に見るりさの体つきは2歳にしてはかなり小さいし、皮膚の硬さも変わらない…

不安な心を打ち消すように、私はりさとの生活を楽しんでいました。

お友達と遊んだり、買い物に行ったり…
そして2歳の夏には大好きなミッキーに会いに、ディズニーランドデビューも果たしました。

しかし、病院の外来に行ったある日…
「りさちゃんの病気が、この病気なのではないかという意見が出まして…」と、
ドクターから病気の文献のコピーを手渡されました。
私は、そこに載っていた病気の子供の写真をみて愕然としました。

りさにそっくりだったのです。

その文献の病名は「ハッチンソンギルフォード症候群・プロジェリア」と書いてありました。
内容は、息が止まるくらい衝撃的なもので、「長くは生きられない」「治療法もなく、原因も解明されていない」

それは、りさが2歳の冬の出来事でした。

認めたくなかったけど、文献の写真を見てしまった私は事実を受け入れるしかなかったのです。
もう、「奇跡が起きて治るかもしれない」という希望は絶たれてしまったのです。
あまりにも辛すぎて、今、その時の記憶は映像が少ししか浮かび上がってきません。

そして、その頃からです。
私の心身の異変が酷くなっていったのは…

次回に続きます。




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