九鬼周造「書斎漫筆」抜粋
九鬼周造「書斎漫筆」の一部を抜粋します。
私は私の全精根を要求する職務をもっている。私は体験と読書と思索とに私のもつ時間の全部を捧げつくさなくてはならない。また私は自分の頭の持ち合わせているものは一切惜しげなく学生に与えてやらなければならない。局外者は大学教授は休暇が多くていいなどと呑気なことを考えているらしい。大学教授と乞食とは一度やるとやめられないそうですなと冗談半分ではあろうが私にいった人さえもある。よほど気楽な商売とでも思っているらしい。私共が学問精進に油断をしてはならないという念で押えつけられているこの重苦しい気もちは同じような職にある者でなければ想像はつかないのかも知れない。
私はもちろん思索と読書の外に自分勝手な時の費し方をもしている。しかし浪費されたかのような時間は実は間接に思索と読書とを助けていることを知っている。私たちの仲間のうちには自分の研究のことを考えると落ちついて芝居ひとつ見ていられないという人もある。また映画を見に行く暇があれば家にいてある本を一行でも二行でも深く理解したいという人もある。私はそういう人達の心もちは十分にわかり、またそれらの人達を衷心から尊敬もするが、私自身はそういう考え方はしていない。私は時たま芝居を見たり映画を見たりするとかなり強い感動とかなり貴重な教示とを受ける。来たためにつまらないことをしたという感じは、ほとんど一度もしたことがない。かえってもっと時々来ようと考える。二、三日気まぐれな旅をしても、一夕を酒の香に浸っても、またと換えがたい体験をする。自分の態度ひとつですべてが思索の材料を提供してくれる。私は誇張してそう言うのではない。大学教授をやめたある人が、大学教授はものを知らないことをつくづく感じるといっていた。映画をひとつ見に行っても自分の今まで知らなかった広い世界のあることを知るという所感を述べていた。これは偽りのない感想だと思う。いったい私は思索には、広い体験が不可欠であることを信じている。そのため私自身はなるべく「大学教授」の型にはまらないことをつとめている。私は色々の体験をしたい。そうしてそれらの体験を色々の角度から思索し抜いて行きたい。私はそんな風に考えているから必ずしも書斎の机にかじりついてばかりはいない。しかし私がどういうことに関してでも筆を取ることのできるのは頭が比較的はっきりしている場合である。そういう場合に漫然と随筆を書くということは私には何だか自分の義務を怠っているような感じのすることが多い。私にとって他にしなければならないことがあり過ぎるほどあるからである。