◼️奇跡のバックホームとは、1996年夏の甲子園、第78回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦の試合で起きた松山商・矢野勝嗣右翼手によるサヨナラ犠飛を阻止したプレー。
当時、この試合を見ていたが、矢野選手のバックホームには感動し鳥肌が立った。
監督の選手交代判断、甲子園の浜風、普段の練習の積み重ね、運、様々な条件が整って起こった奇跡のバックホーム。
2024年9月19日に松山訪問時、4時ごろ、松山商業の前を通ったらグランドから野球部の声が聞こえてきた。
🔹奇跡のバックホーム
🔹奇跡のバックホーム
10回裏の熊本工業の攻撃、澤田監督は、左打者のロングヒッターである本多なら右翼へ打球が飛ぶ確率は低くないと判断した。
さらに、この時、何処からともなく『今を逃れなかったら後はないんだぞ』という声が聞こえた事もあり、ライトの守備を新田から矢野への交代を決断した。
澤田監督自身、この声の正体はよく分からないという。
ただこの時、監督の手には、お守り代わりとしていた大会前に亡くなった父の遺骨が握りしめられていたと言う。
◼️奇跡のバックホーム
Wikipediaより
10回裏、熊本工の攻撃開始前、松山商ベンチで監督の澤田は既に疲れを見せていた新田に声をかけたが新田の「行けます」の一言で続投を決意した。
しかし熊本工の先頭打者・星子がフルカウントから左中間を破る二塁打を放つと、澤田は新田を右翼の渡部と交代させた。
続く園村が送りバントを成功させて一死三塁となる。
ここで澤田監督は過去に同じサヨナラの場面で2回負けた苦い思い出があることから、満塁策を決断する。
松山商は1969年夏の第51回決勝、対三沢高校戦で延長15回裏の一死二、三塁、16回裏の一死一、三塁のピンチをいずれも満塁策で切り抜け、延長18回引き分けに持ち込んだことがあった。
タイムを取ってマウンドに集まっていた内野陣の選手たちのところに、伝令の吉田が満塁策の作戦を伝えに行き、その後に渡部は野田と坂田を敬遠して一死満塁とし、打席に3番の本多を迎えた。
ヒット・ホームランはもちろん、犠牲フライやスクイズバントでも1点入ればそこで試合終了。
たとえ内野ゴロでも、飛び方によってはバックホームが間に合わずサヨナラとなるおそれがある。
さらに、投手にとってはバッテリーエラーやボークだけでなく四死球さえできない状況である。
松山商としては、まさに1つのミスも許されない状況であった。
このとき、渡部に代わって右翼の守備に就いていた新田は守備の交代を望んでいた。
新田は甲子園の三回戦で一度右翼を守っただけで県大会では一度も守っていなかった上、一度も右翼守備の練習をしたことがなかった。
澤田監督も右翼の守備交代について、27年前の決勝(三沢高戦)のように延長が長引いた場合に備えて新田を交代させずにおくか、この場を確実に凌ぐことを優先して守備固めをすべきかで迷っており、結果的に左打者のロングヒッターである本多なら右翼へ打球が飛ぶ確率は低くないと判断、さらにこの時、🟡何処からともなく『今を逃れなかったら後はないんだぞ』という声が聞こえたこともあり、投手の渡部が第一球を投げようとしているところでタイムを取り、右翼守備の交代を決断した。
新田に代わる守備固めに起用された矢野勝嗣(まさつぐ)は背番号9を付けた正右翼手で春の甲子園でも先発出場していたが、その後に新田と渡部の先発二本柱が確立し、新田が先発の時は渡部が右翼に入る起用法をとっていたことから甲子園でもスタメン出場は渡部が先発した2試合のみと控えに甘んじていた。
加えて打撃不振に陥っており、スタメン出場した準決勝では三打席目で代打を出されていた。
それでも矢野は腐らず、一塁コーチャーとしてチームを支えていた。
澤田は右翼へ向かう矢野に「信じてるぞ」と声をかけた。
突然の交代となった矢野は、グラブを慌てて探してベンチを飛び出し、右翼へと着いたあと右肩を回して返球に備えた。
プレーが再開され、スクイズも考えられる状況で打席に立った本多は初球の高めのスライダーを振り抜いた。
「代わったところに打球は飛ぶ」の格言を体現するかのように、右翼に大きなあたりが飛んでいった。
投手の渡部は、打たれた瞬間にホームランだとサヨナラ負けを覚悟し、NHK総合テレビの実況の高山典久アナウンサーが「行ったー!これは文句なし!」と思わず言ったほどの大飛球であった。
だが、甲子園特有の、ライトからホーム方向に吹く強い浜風に打球が押し戻されて失速し、スタンドまでは届かず右翼線際へのフライとなった。
背走していた矢野は打球を一瞬見失いかけるも前進して捕球、それと同時に三塁走者の星子はタッチアップし、サヨナラ勝ちを確信する状況でも全力でホームへ走った。
この一連のプレーで熊本工の田中監督は「犠牲フライには十分な飛距離だ、勝った」と思い、一方の松山商の澤田監督も「あ、終わったな」と思ったといい、打った本多自身も犠牲フライだと手応えを感じた一撃であった。
一方、矢野は二塁手の吉見や一塁手の今井のカットマンに返球していたのでは万が一にも間に合わないと判断し、前進して捕球した勢いそのままに力任せにバックホームするも、二塁手と一塁手の頭上を大きく越える山なり送球となってしまった。
一塁塁審の桂は、とんでもなく高い返球に「これで終わった」と思い、松山商の捕手・石丸も、普段の練習で矢野が幾度となく大暴投を繰り返していたことを思い返し「またやったか」と星子のタッチアップ成功を覚悟した。
送球は三塁側に少し逸れたため石丸はホームベースから離れ、送球のライン上、三塁ファールラインの上に移動していった。
しかし、距離にして80mを超える矢野の返球は甲子園の浜風に乗り、石丸の捕球体勢を見てその前をかすめるように右足からのストレートスライディングを敢行した星子(3塁ランナー)の目の前を通過し、石丸のミットへダイレクトで収まる。
それとほぼ同時にミットと星子の頭部が接触した。
星子はスライディング後に両手を広げて「セーフ」を、石丸はボールの入ったミットを高く差し上げ「タッチアウト」をそれぞれ球審にアピール、一塁側ファールグラウンドで見ていた田中美一球審はアウトを宣告。
このタッチプレーが行われた瞬間に、星子の右足がホームベースに届いていなかった写真が撮影されている。
少しでも返球がずれていたらタッチできずにセーフとなっていたであろう、奇跡に近いピンポイントの返球であった。
ダブルプレーで熊本工は3アウトとなり、絶好のサヨナラ勝ちの機会を逃した。
星子は信じられないような表情を浮かべ、犠牲フライを確信し一塁手前でバンザイをしていた本多は、そのまま呆然と立ち尽くした。
あの深い位置からの返球でなぜアウトになったのかと、球場は興奮とどよめきに包まれた。
実況中継の解説者の面々も驚きを隠せず、NHK総合テレビの解説の原田は「私自身も今これね、両手に鳥肌が立ってるんですよね」、NHKラジオ第1放送では解説の福島が「もう、とにかくあれはダイレクトで、自分が1人で放る以外に殺せない(アウトにできない)ですね。それが、ストライクが来ましたよ」、テレビ朝日系列の中継(当時の朝日放送が制作)では「これは本当に、奇跡と言うほかにありませんね」と解説されたほどであった。
あまりに奇跡的なプレーを目の当たりにした興奮で、NHKのテレビ中継では「満塁ですから、これタッチ要らないんですよね。フォースプレーです」と、朝日放送では「ちょうどキャッチャーのね、ホームプレートのまん真ん中に来ましたね」と誤った実況解説をしてしまうほどであった。
バックホームした当人の矢野は、クロスプレーの状況が一塁手の今井と重なってはっきりと見えなかったものの、今井が踊るように喜んでいるのを見てアウトと知り、飛び跳ねるようにベンチに引き揚げてきた。
そんな矢野を、澤田はベンチで強く抱きしめた。
◼️矢野勝嗣選手
「奇跡のバックホーム」の主役である矢野勝嗣は、松山商一の強肩ではあったがミスが多く返球もバラバラだった。
真面目で練習量はチーム一だったが不器用で本番に弱く、積極性に欠ける選手であり、当時の松山商が守備練習の最後に行っていた守備順にノックを受けて返球する「ノーエラーノック」でも、矢野は常日頃からミスを頻発しており、それによってノックが最初からやり直しになったり全員が走らされたりといったことが続いたことから澤田監督には怒鳴られ、同級生のチームメイトからは部を辞めてほしいとまで言われることもあったという。
松山商の外野手のホーム返球は、中継かワンバウンドが決まりであったが、矢野はダイレクトになるミスが多かった。
ただし澤田はこの年の6月に、サヨナラの場面では定位置より後ろからはダイレクトに投げるケースもあると外野手に教えていた。
澤田本人は忘れていたが矢野自身は覚えており、澤田は真面目な矢野らしい話だと語っている。
矢野は、10回裏の「奇跡のバックホーム」と、11回表の初球の二塁打と、たった2球で高校野球生活のすべてを出し切ったとも言え、矢野は高校卒業後「最後に出てきて、いいところだけ持っていった」と当時のチームメイトにからかわれるようになる。
矢野はテレビ局の取材でこのときのバックホームの再現を試みるも、1球もホームに届かなかった。
矢野は松山大学に進み、3年生でレギュラーとなる。 4年生で主将となり、2000年の大学野球選手権に出場している。 卒業後、愛媛朝日テレビに入社した。
◼️【高校野球】甲子園名勝負と当時の監督、選手のインタビュー動画
🔸PL学園 vs 高知商業 9回裏の逆転劇
🔸箕島 対 星稜 延長18回
🔸松山商業 vs 熊本工業 奇跡のバックホーム
◼️奇跡のバックホーム
◼️矢野選手の裏話し
◼️1996年、奇跡のバックホームを振り返る澤田監督
◼️【奇跡のバックホーム】熊本工 星子崇さん(前編)インタビュー
◼️松山商「奇跡のバックホーム」から26年…ライト矢野&澤田監督がいま明かす“甲子園決勝までのドラマ”「最後まで、スタメンを誰にするか悩ませた張本人」
◼️27年前の夏の甲子園決勝「奇跡のバックホーム」の熊本工と松山商 年齢を重ねても熱い〝3度目〟の対戦「あの決勝があったから…」
◼️松山商業 対 熊本工業の再戦