【甲子園】高松商業野球部の伝統 悲業の最期を遂げた先輩の霊を慰める「志摩供養」とは?
🟣志摩供養とは?
1924年、第1回春の選抜大会の優勝校は高松商業 (第一回選抜大会は名古屋市の山本球場で開催)。
この時の高松商業の三塁守が 志摩定一 選手。
●第一回選抜大会では、高松商業が決勝戦で、早稲田実業を2-0で破り優勝。この時、志摩定一選手は、6番 サードで活躍。
志摩選手は、胸部疾患を患っていたが、この後の夏の予選にはそれを隠して出場し続けたため病状は悪化し1924年冬に、
「俺が死んでも魂が高商の三塁を守る」 という遺言を残し他界。
この遺言の精神を守り、そして志摩選手を供養するため、高松商業の試合では1回の守備に就く前に、ナインが三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が水を含みベースに吹き掛け、「さあ行こう」と声をかけてから守備につくという儀式「志摩供養」が始まったとされる。
1924年の選抜大会に優勝した高松商業であったが、1924年夏は甲子園出場ならず。1924年冬に志摩定一選手の死もあり、一同奮起。
1925年の春の選抜大会では、準優勝(優勝は松山商業)、1925年(第11回大会)、夏の甲子園大会においては、高松商業が本州に所在する学校以外では初めてとなる優勝を達成。
深紅の大優勝旗が初めて四国に渡った。また、高松商業は春と夏、両大会の優勝経験がある初めての学校となった。
🟣その後の志摩供養
この儀式は、悲業の最期を遂げた志摩先輩の霊を慰める為のものであったが、1978年に高野連により、遅延行為、宗教的行為を理由に中止勧告を受け、禁止されたため、以降の甲子園出場時には行われていなかった。
しかし、20年ぶりに出場した2016年の第88回選抜大会より甲子園では、三塁守が初回の守備につく際に三塁ベースに手を添え頭を垂れて祈るというスタイルで志摩供養を行っている。
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