one day photo_20
アーティゾン美術館で開催していた柴田俊雄と鈴木理策の展示会を見に行った6月から7月。素晴らしい展示会でした、写真芸術の一端というか、芸術全体の流れの中の写真をちゃんと体感出来てとても良かった。
僕は石元泰博生誕100年の公演動画で畠山直哉と森山明子が対談している動画がとても好きなんですけども、その中に登場する写真のプロパーの下りの反語がちゃんとここにはある、という実感が持てたことがまずよかったのです。
柴田俊雄さんといえば日本典型等々名著多数……。抽象化された図像がとても特徴的。カメラを通して見える世界と、人間が見ている世界の違いで、カメラは光学かつ自然科学的なプロセスを経て物質化されるというモダンな時代をさらに推し進めたような作品が主で、そうやって残された写真は不思議な影を感じさせるというか、異世界の産物のように見えた。辺谷口昌良と畠山直哉の著書にも通じるところがある。
清水穣氏の著書などによれば、カメラアイによる冷徹な「あるがままの世界」に人間が普段見ている世界とは少し違う、違和感のある世界を演出するモダニズムの時代の写真の最終盤の作家たちの一人、ということらしい。
個人的に図像としては柴田俊雄さんがすごい好きで、ある種の憧れを抱いた。というかやっぱりこの70年代アメリカ、ショアやミズラックをはじめとするような諦観的な態度の作品や世界の見方が好きなんだろう。
鈴木理策さんは一貫して「見る」という行為や事象をテーマに作品を続けている、僕は熊野桜冬しか見たことなかったので、今回はいろいろ見れるのかなと期待大。
訪れてみれば「見る」というテーマについてこんなに奥深く、論理的にアプローチしているのか(感嘆)となり。テーマの持ち方や探求の仕方はめちゃくちゃ勉強になりました、あとすっげぇ奇麗。
マジックミラーを利用したポートレイトとかすごい、「モデルが見ていたものだけを残す」とか思考のアプローチがコンセプチュアルの文脈にも見えるけど全体として一貫した姿勢に感銘を受けた。
カメラの特性というか、写真とはフレームとレイヤーっていう所を抑えて、現実の世界にレイヤーを与える、という所が結構説明されていて、それが凄い参考になったかな……。思考として知覚へのアプローチや、写真の解釈、拡張といった部分では鈴木さんはめちゃくちゃモダニストに見える。
その前に見ていた清水哲郎さんの轍は、本人が名取洋之助賞を受賞したように正統派ルポルタージュ的なテーマの持たせ方で、それも素晴らしいと思ったんだけど。芸術分野におけるモダニズム時代のテーマの持ち方、人間の知覚や無意識を画像を含めた表現で探求するっていうテーマの持たせ方に近い鈴木理策もみるとその方向性の違いとかがより鮮明になってそれぞれが楽しめた。
そして自分はどういうスタイルや、疑問を持っているのだろうと考えさせられましたわ。
僕は山を巡る中で、山を巡ったり、旅をして撮る現地取材、ルポは具象的な部分に近い問題意識や疑問といった部分もないと成り立たないなと思えていて。
自分として山に具象的な部分でのそれはないからその観点では撮らないだろうなと思っている。
逆に、カメラを通してみることで別の惑星みたいに見えるあの感覚というか、モダンな時代の人たちが追っていた世界は僕も見てみたいし、面白いと思えたのでそういった視点で日常や自然の中から驚きを拾い上げてみたいなぁと思った。
それはそうと、モダンとポストモダンの違い、何が批判され何が拡張されたのかとか、そういったものをより深く学んでいけば、撮るものもまた変わってくる気がしている。
山で写真を撮っていても距離感的には「少し離れて」という感じになってきた。28㎜と40㎜くらいで、あとは身体で調節するような。
平ヶ岳はかなり辛かった、塩見岳日帰りやチロロ林道日帰りよりも嫌いなコースだった
natural pointと名前を付けてみた写真たち、登山中に身体的な反応がある光景に向けて正中でカメラを向けてる。「見えているものと違う違和感」をどう表現していこうか。
並べてみるとだんだん自分の好きなものが明らかになってくるなと思う。中心がある程度あったほうが好きだし、抽象過ぎない、具象過ぎない、そんなものが好きなんだろうと思う。ショアよりもミズラックが好きなところもそんなんだなと思うし。(ショアは中心が無いことが多いイメージ)
夏は暑くて写真を撮りに行く気になかなかなれない、困ったもんだ。