one day photo_21
「デジタル写真論」と「ジャムセッション柴田敏雄と鈴木理策 図録」を読み終えた三連休、次は「ナチュラリスト田淵行男」と「この星の光の地図を写す」と「uncommon places」を読もうと思う。
写真を趣味にする中で、色々写真を見ると写真っていうメディウムは撮られている内容や、写真を楽しむ態度、写真芸術に対する理解度が絵よりもバラバラだなと思っていた。(絵といっても僕はイラストの仕事出身なのでちょっと違うが、イラスト畑の人間は純粋絵画や現代絵画はジャンルが違うとして区分けが結構出来ていた。)
僕はSNSスタートで、東京カメラ部とかを頑張る人たちを見る反面、美術館などを回るとどうもそういったものとは違うところに写真としての主流があるらしい、ということがわかり、このよくわからない写真の地図を自分なりに解釈したいと思って勉強を始めた。
ただこの勉強が中々曲者で、ちょっと聞きかじった人とかと一緒にいるとすぐに聞いて、間違った答えが返ってきてもあってるかわからないから納得した感じでその場を流すしかない。ので、そういう所からは足を洗って一人でとりあえず写真史や写真集、論集と向き合うしかないと思った(これは愚痴である)。仕事と育児をしながら学校に通うわけにもいかないし……。そんな感じで図書館に半年ほど通いながら、信頼できる方に意見をぶつける生活をしている。
とりあえずここ半年で、畠山直哉さんや大辻清司さんの筑波大系列(牛腸茂雄はまだ見てない)の著書を多く読んだ気がする。ので覚えてることを自分なりに一回まとめたい。
トルボットの自然の鉛筆からスタートして、モダニズムという時代や考え方に沿って70年代くらいまで「ありのままの世界」を撮影するための人々の基本的な考え方や写真芸術の受け止め方が主流として存在した。
あるがままの世界は超現実的でシュールレアリスムでもあったので、視覚的にその素因となるゲシュタルト理論みたいなものとかがある。
写真は人間の眼とは違い、レンズを通して結像した光がフィルムに当たり、そこで起こった化学反応により像が残されるという、人が居なくても成り立つ自然科学的なものであり、それは時にいつも見ている景色が少し冷たい、何ともよそよそしいものになったりするという観点。
現実の先に超現実、シュールレアリスムがあるっていう話なので抽象化がある程度求められてくる。構図が優れてるとかは位置とかっていうのはこの部分の話。これはほぼ畠山直哉がいろんな著書で書いてるけど、清水穣も大辻清司も杉本博司も大体書いてるからまぁそうなんだろう。
そもそも「人の感情とか写んねーよ」からスタートして、人間の眼の先、認識の先のあるがままの世界、それは機械の眼だからこそ暴露できる化学反応的な真実の世界、それを観察するのがモダニズムの始まりで、ブレッソンもエバンスもクラインもアダムスもその系譜でカメラであるがままの世界写してくるわ!ってやってた。で、ここまではいろんな本でモダニズムとして書かれてて。時代性と思考がわかると撮影スタイルや選択された技法とかカメラにも納得がいくようになった。
でも僕が好きなのはそのあとの世代、アダムスよりもモダンが進んだ70年代以降の風景写真なのよね。カメラ的には軽いライカから逆行して大判中判ビューカメラ勢が再び現れたころ。
いわゆるポストモダン世代で、これが全く分からなかったが清水穣の「デジタル写真論」は一つめちゃくちゃわかりやすい見方を提示してくれたかなと思う。清水穣氏はポストモダン世代をコンポラとプロヴォークと牛腸茂雄で説明している。
写真を写真として見るとか、表面的には没入性と演出性で表面的な演出性に傾き始めたとか特徴がデジタル写真論では書かれていて、そこはまだ解釈というか理解に時間がかかりそうだ。
その中でもリアルなものがもう巷に溢れていて、そのカウンターとしてプラスマイナスゼロ表現、リアルなものの先に空虚があるといった観点からニュートポグラフィックス系の自然≠人口的な覚めたものが出てくるのだけど、やっぱりこの辺は共感できる観点は多い。
柴田敏雄、ショア、ミズラック、畠山直哉はまさにこの系譜。
ポストモダンの特徴と一つとして「写真が写真であることを意識すること」があると思う、それまでのドキュメンタリー的な没入感(アブソープション)よりも演出性(シアトリカル)であることと書かれていて、あー、枠の外を考え始めたのがここかという感想。
スナップショットもカメラ目線だったり、やけに演出的な瞬間や光の使い方を意識していたり、没入感よりも演出性が高い。
で、僕の年代位がネオコンポラって呼ばれる作家が多いことからも、ここはまだ現在進行形なんだなと思うと、決して70年代の作家の仕事とか見て懐古ともいえないのかなーと思ったり。
という三連休だった、山に行きたかった……。
大学時代の同級生の西澤諭志君がコンポラの写真家だったのだが、何やってんのか最初はわかんなかったけど、たぶん画面を色や記号で抽象化する、カメラを通したときに肉眼の印象とは違った形に平面化されるをやってたんだろうなと思う。
大体このくらいの距離感でセンターが好きなのは何の影響なのか。
人がいても人中心に撮らない。世界に固定されたカメラがただ空虚に世界を捉えるような形にしたいので、正中と、画面内のラインが四隅と平行になるようにだけそろえる。
中心以外にも画面全体でコンポジションしなさいと言われた場合、各部分の形状や色味をちゃんと見てんだな偉い人は……と感心する。自分ダメダメっす。四隅を見るっていうのは萩原史郎みたいな四辺止めとか四辺閉じの話じゃなくて、各要素がプットアンドプルする要素になってるかとかの、造形的色彩的なバランスを抽象化してちゃんと見て配置しろということなんだろう。
開放に立ち戻ってくると「いえーい!情緒的!意味深サイコー!」みたいな逆切れ気分になれる。見る側からは何か錯覚しそうな奥がありそうに見える開放だが、たぶんほとんどのものに奥はないんじゃないかと。
仕事始まったらまた大変だなぁ……、休みたい。