one day photo_10
石元泰博氏の桂離宮を読んでいて、「あ、そうかカメラって一点透視図法の目か」と改めてハッと自覚した。Z軸方向、奥に向かう線があった時に、フレームに対して水平垂直を保つためにはその線を中心におかないといけない……はず。
けど桂は大判カメラか何かを使って撮っているのでチルトやシフトを使って光軸をずらして、結果、画としてフレーム内の中心と、光軸の中心が違う写真が出来てる、すごいデザイン的で真似したくなって駅のホームでカメラを構えてみたけども、どうも奥に行く線をフレーム1/3のところにおいても垂線にはならない。「あ、そうかレンズって……」となった。
それに紐づいて、朝見上げたソニーのビルがなんで垂直に立っていると思えるのだろうという疑問を想う。だって目で見ても、カメラを上に向けて撮影しても、目の前の線も面も奥にすぼまっていく。最近水平垂直と中心を意識して撮影をしていた中で、カメラの機械的な視線と人間の認識の間の差みたいなのを感じてきたけど、ここで「見えているのは斜めの線なのにどうしてこれが地面から直角に立ち上がっていると認識できているんだろう」ということを疑問に思う、目というか脳が補正している、これは認知なんだろうけど光学的な正しさとは少し違う。
例えば顔を横に倒してみても目の前の景色は横に倒れない、でも光学的に忠実なカメラでパシャッと撮影すると現実の上とフレーム内の上が一致しない。そうか、写真にはフレームがあるもんな。
カメラの特性というか、機械性の話はいろんな本に書いてあったけどこういうこと??大昔のこういう話の結論をわかりやすく読みたい。
大した話じゃないけど、そういった「見えているもの」と「認識しているもの」の差の話って構図を作るときに「なんで真ん中に置くんだろう」とか考える時に面白さを与えてくれるなと思う。
あと、スティーグリッツのストレートや伊奈信男の「形式……、他の芸術もそうなのだから写真術も安心して形式の特徴を発揮しろ、その特徴の一つが機械性だ、機械性を発揮することはモダニズムの出発点だ」みたいなことを理解するために必要なもののように感じる、この発言自体は引用した畠山直哉の本だけど。
モダンな写真って何?って思ってたけど、話す写真の内容や大辻青二の本を読むに機械性を理解していることはその要件たるようで、そういう見方があるのかと知れたのはとてもありがたかった。
そして、モダンってそういう一面なんだ。という後ろにいるピクトリアリスム、絵画的写真って写真の機械性から批判されてすたれた。でも最近、少し前か、SNSで絵画的写真というキーワードとかよく見たし自分もそういうのやってた、この「モダン?ピクトリアリスムって?」の疑問を掘っていくと、SNSでよく見る写真に対する違和感、美術や写真というものに対してあまり考えることなく映えていて、共感のために作られた画像をどう考えればいいんだろうということの答えというか。キュレーターや作家の方と話すたびに苦笑いされていた時の、あの違和感が見えてくる気がしている。
あと……あれ、フィルムって自然科学とともに発展してきた、じゃあデジカメは、デジカメの特性は?って考えるとテクノロジー的な部分、もはや写真じゃなくて画像なのかもって思うと、「あ、トーマス・ルフのjpegってフィルムの次の段階の形式の特性なのかも?」と思ってしまう。
現像はまぁ……それこそピクトリアリスムの頃にある程度完成していたし、デジタルの特性って共有性や、その本物のなさとかそういう所なのかも。
というようなことを「話す写真」と「桂」を読みながら考えていた。
勉強途中なのでいろいろ間違っていることもあるとは思うけど、学ぶのは面白い。こういうのが普段の写真や、山で撮る写真をいつか変えてくれると信じている。
水瓶
街の眼
中立地帯
中心を変えないまま、距離を変えてみるとか。学生の課題にあったので、面白そうなので見よう見まねで初めてみる。
明日も桂を読んでみよう、なんてファンタスティックな本だろう。