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【長編】怪廊の剣士 二十三話
深く、とても深く潜った。以前も体感した、何日も時間が経った感覚。
ルシュの中に焦りはなかった。なぜなら時間の感覚はこの深淵ではあってないようなものだからだ。
過去の経験が理性を保たせている。しかし油断できない。何も考えないようにしているだけであって、この冷たい漆黒の闇に恐れや焦りの気持ちが勝ると気が狂いそうになる。
真っ暗な水中を、一定の緩やかな足の動きで進んでいく。早くすれば焦りの気持ちが生じ、ラオとシャレイへの心配、宜惹と戦っているトビを早く救わなければと逸る気持ちが表われる。足を止めれば何をしにここへいるのか分からなくなる。
気持ちを安定させるのに丁度良い緩やかさを保つ。それがここでの防衛だからだ。
途方もなく深く感じる暗闇。
ようやく終わりを告げる光が視界の先で小さく煌めいた。それを見た途端、気持ちが逸りそうになるが、それでも何気ない気持ちを絶やしてはならない。煌めきは自分の心情が見せた幻かもしれないから。
一定の速度で潜る。煌めきは次第に大きくなり近づいていると実感する。それが大きく、巨大な石碑と分かると、ようやく足を早く動かして近づいた。
黒碑。
怪廊に住むモノ達を記した石の塊。綴られる文章に名は記されていない。何処の国のものか分からない文章が綴られているだけで、術を発動させる文章かもしれない。真相は未だ誰にも分からない。
黒碑を前にして浮かぶ想いは、一刻も早く要件を済ませこの場から離れたい気持ちだけだ。
だから周囲の光景がルシュには見えない。輝く黒碑の周りにも犇めいて黒碑が漂っているのを。
今はクオ家の因縁が強く働き、憑きものに黒碑が反応している。
ルシュは黒碑に触れ、シャレイを想う。
黒碑の文章は触れたモノが知りたい知識を識別し、黒碑の中へと引きずり込んだ。余計な人間が怪廊にいないので黒碑も識別がすんなりと早く済む。
◇
トビはいよいよ激しく呼吸を乱した。一度目の休憩からしばらく宜惹の術に警戒しながら戦い、とうとう体力が残り少ないとばかりに。
一方で宜惹からも余裕の笑みが消えていた。
「そろそろ観念し、大人しく負けを認めて貰いたいのだが」
返答の分かる要望に、優勢から現われる余裕はない。
「はぁ、はぁ、はぁ……。死ねって言われて素直に従う馬鹿に見えるなら、そりゃ耄碌ってやつだぜ」
トビから目が離せない。少しでも自身へ向ける目を逸らせてくれれば、僅かな時間で周囲を一瞥出来るのに。
目が離せない現状、どちらかが逸らせばそれは命取りに直結する。自身の手を読まれ、瞬時に対策を取られてしまうからだ。
「オイラの気のせいか? さっきまでの余裕がなくなってるぞ」
トビは煽り、あざ笑いでもして気を余所へ向ける事を願った。
「初めからお前さんに怖れているさ。怖くて怖くて仕方ない。紫寶家の才子が相手だ。油断出来んよ」
先ほどまで消えていた不適な笑みが現われる。
挑発か、はったりか。トビには読めない。
(さて、今もなお手の内を隠すとは。温存か、術の仕込みか……しかし素振りがまるで見えん。大振りな“術切り”の痕跡すら意味がなく、新技とも思えん)
宜惹は次の手を考えた。
トビは疲れた調子を崩さず冷静を保つ。ここまで準備した術を崩されると敗北が確定したも同然だからだ。
(挑発はあぶり出しか、油断を誘って隙を突く手か。まだ気づかれてねぇだろうな?)
宜惹へ対抗する手段はこれしかない。これ以上相手の術に術切りを連発すれば、ルシュが戻るまで身が保たない。
作戦決行前から宜惹の出方は予想していた。宜惹は相手を弄ぶような戦い方を行い、初めから接近して武術を駆使して戦う性格ではない。
宜惹はトビの接近戦を警戒している。それが得意分野であり、宜寂の脅威に匹敵する実力をもつからだ。一定の距離を置き、相手の得意分野へ持ち込まず、ジワジワ疲弊させる。消耗状態で接近戦へと至れば勝ち目はある。
二人は手を考え続ける。疲弊する様子も、あざ笑い余裕の様子も、勝利を掴むための騙し合いだ。
「さて、次はどちらかな?」
宜惹は次の行動に移った。
四方八方へ刃のように鋭い灰色の光りが伸びる。まるで本物の刃に見える光に、トビは反応して躱してしまう。
「ほれほれ、鋭利な刃を躱し続けねば寸断されてしまう。死んでしまえば皆が死ぬなら、いっそ楽になって、皆で楽土へ向かうはどうかな?」
「はっ、まっぴらごめん被る!」
剣に術を敷き、光りを凌いで躱し続ける。時々止まり、周囲を見て動く道を見抜き、手を考える。
「報酬貰わず死んだら祟って出てくるからな! 玖陸滅ぼすまで恨んでやるぜ」
「怖い怖い。怨霊の申し子のような奴だ。なら、性分ではないがワシはお前さんを滅する正義へと身を転じるしかあるまいよ!」
「へっ。腹の探り合いを終えてからにしようぜ!」
逃げ回るトビは立ち止まる。光りの刃が迫り来る中。
「何!?」
地面に剣を突き刺す素振りは術発動の合図。
宜惹は見抜けなかった。トビが逃げ周り結界を張って回っていたのを。
手足の指先に気功を集中させ、結界に必要な点を地面に突き刺す。それは針ほどに細く、米粒ほど小さい芯。合計四十八カ所。
宜惹も自らの戦術を解く術を警戒していた。結界を張れば効果が著しく落ちる。そうすれば接近戦へと持ち込まれる。
トビの結界内では追加で発動される自らの術が効果を上げる。一方的に優勢へと持ち込まれる状況へと持ち込んだ。
まるで荒波を一瞬で抑え鎮めるように、トビを中心に結界が発動して宜惹の術が消し飛んだ。
鏡のように空を映す海面のような、気持ちが清々しくなるような状況。空気も澄んで感じる。
「仕切り直しといこうぜ」
先ほどまでの疲れがない様子でトビは剣を構える。
「相変わらず忌々しい童が」
この窮地、宜惹の目つきを険しくさせ冷や汗をかかせた。
トビを優勢に立たせたとて油断は出来ない。底知れぬ手管を持つ宜惹は、最良の手段を考え続けた。
ルシュは黒碑から戻り始めている。それまで一切の油断は出来ない。
◇
妖鬼の群れを仕留め続けるラオとシャレイは、とうとう呼吸の乱れが激しくなる。
「はぁ、はぁ、はぁ。くそっ! いつまで沸いて出る気だこいつら!」
群れにも波はある。数体の大群を仕留めればしばらく間が開き、次の大群が攻めてくる。それの繰り返しだが、群れて攻める妖鬼の強さや大きさは増していく。
怪鳥の群れはいなくなったが、高く跳躍し、ひとっ飛びで長く進む妖鬼まで現われている。さらに熊のような化け物まで。一体一体の急所を突くことする困難となりだす。
「兄様、ルシュが怪廊へ行ってかなり時間が経ちます。次の群れは数を減らして逃げに徹しましょう」
シャレイの提案は尤もだった。
今、一体一体が強力な妖鬼の群れで攻めてくるが、追い打ちで数が増すことはなくなった。この消耗戦を続けていれば次かその次でラオとシャレイは力尽きる。
誰も死んでほしくはない、全員が生き残る最善策を講じて実行しなければならない。
「それで行くぞ。どれを仕留め、どれを残すか……」
次に現われる妖鬼を見た途端、作戦を立てられないと思考が導き出す。
妖鬼は一体のみ。あまりにも不気味で禍々しい姿をしている。
トカゲのように動く巨大な人間。尻尾はあり、耳も大きく布のように靡くが、右へ左へと動いている。舌を蛇のように伸ばしては縮め、目は獲物を見据えるトラのようだ。
「こちらの意図でも読んでるのかよ。逃げ続けろシャレイ!」
二人は別々の方向へと逃げた。
妖鬼は頭をシャレイへ向け、尾っぽでラオを狙う。
上手く叩きつける尾の動きを読み、寸前の所で直撃を免れるも、風圧が強く飛ばされる。着地をするが追いで払い打ちに遭い、尾の先っぽを腹にくらった。
まるで突進でもあったような衝撃を受け、またも飛ばされた先で嗚咽する。
(一発貰うだけでこれかよ)
逃げ回る前に敵の動きに支障を与えなければやられてしまう。無い物ねだりでだが、空でも飛べれば背に乗り対応策の一つでも講じれるが。
妖鬼はシャレイを狙っているため、尾の範囲から逃れたラオは次の尾撃を受けずに済んだ。しかしそれはシャレイの危機を意味していた。
ラオは踏ん張って立ち上がると、大きく呼吸し、痛みを我慢して向かった。
シャレイは考えた。この妖鬼を仕留めればさらに強力なのが現われる。なら、瀕死の状態まで弱らせればいい。それが出来るのはシャレイが窮地に立たされれば守る憑きもののみ。
操った事はなく、襲われればどれ程強い攻撃を食らわせるか分からない。
頭の中で描く光景は、妖鬼同士が応戦している最中に遠くへ離れる算段だ。二人で離れた所で身を潜めて休憩する。敵の妖鬼を倒して安全が確保されて憑きものは消える。
また攻めてくる妖鬼から兄妹は揃って逃げ続ける。今よりも体力が回復しているから逃げやすい。
一か八かの即席の作戦を構築すると、シャレイは妖鬼の正面に堂々と立ち、大きく呼吸した。
(お願い、上手くいって)
怯まず睨み付ける。その心情は不安と恐れに満たされている。これほどの恐怖の中、ミュレンは憑きものに食われたのだから、自分もそうなると考えれば、泣き出して逃げたくなる。
けど、みんな戦っている。全ては自分の為に。
シャレイは腹に力を籠め、妖鬼が食らいつくされる有様を見届けようと目を閉じずに睨み付けた。
(ミュレン姉様)
心中で縋った時だった。
妖鬼の上顎と下顎を掴む、巨大な熊の手のようなものがシャレイの背後から現われた。
想像を絶する巨大さにシャレイは思考が止まり、瞬時に満ちた恐怖のあまり腰を抜かしてしまう。
グゴアアアアア!!!! ギャガアアアアアア!!!
何とも言えない咆哮と共に、憑きものは妖鬼を口から引き裂いた。
下顎から首、腹へと続く肉を削がれ、臓物が飛び散ると、憑きものの手は妖鬼を投げ捨てた。すると、腕を振って暴風を起こす。
ゴアアアアアアアアアア!!!
またも咆哮が響くと、さらに腕を振るい暴風の威力が増す。
「シャレイ! 伏せろ!」
駆けつけたラオがシャレイと共に飛ばされないように踏ん張る。
まるで嵐のような状態。
ジッと耐える最中、積乱雲の壁が天へと流れるのをラオは見た。