【短編】七日後の完全犯罪 七話
八月八日。洋佑は珍しく陽が昇り始めた明朝から家を出た。
あちこちにガタが来ている自転車を久しぶりに乗り、昨晩印を入れたトンネルへと向かう。
長い間運動とは無縁の生活が祟り、加えて錆び付きが所々にある自転車はペダルが重い。走り始めて十分で息切れが生じてしまった。それでも穂香に会いたい気持ちがペダルを動かす。
どれほど気持ちは強くても身体はついていかなかった。体力も足もすぐに限界に達してしまい、自転車を押しながら歩いて向かった。
正午前、ようやく一つ目のトンネルへ到着。
「穂香! いないのか!」
無人のトンネルからは当然返事はない。自転車を走らせて端から端へ移動したところで、キィ、キィと五月蠅い軋み音が響くのみ。
続いて二つ目のトンネルへ向かう。到着したのは午後三時を回っていた。
「いるなら返事してくれぇぇ!」
やはり何もない。
遠くで虫取りに精を出す五人の子供に見られ、奇妙な男がいると怖がって逃げられてしまう変化はあったが、洋佑は気にも止めない。
さすがに三つ目のトンネルへは体力も時間も足りず、明日へ持ち越しとなる。帰宅途中で風呂屋へ寄り、食堂で夕食を済ませてから家へ帰った。
万年床へ寝転がると、さすがに疲れたので落ちるように眠れた。
翌日。昨日の肉体疲労が影響して起きるのが遅くなるも、午前九時半には家を出て、一番遠い三つ目のトンネルへと向かった。
昨日同様にトンネル内で穂香の名を叫び自転車で往復するも、何一つ変化を示さなかった。
やはり所詮は噂。信じたところで馬鹿を見るのは当然だ。
落胆して帰路につく最中、憂志郎の話を思い出す。
『……一般のトンネルが誘いトンネルとは限らないし……』
他の話は曖昧だが、こんな言葉を口にしていたのははっきり覚えていた。
冷静に考えてみてもそうだ。普通にあるトンネルに纏わる怪談があり、もし本当であるなら多くの人間が行方不明となっている。
そうではない、別のトンネルが存在する。
無理やりで都合の良い自己解釈。
洋佑の思考が行き着いたのは、噂の舞台として注目されているトンネルだった。
古い記憶を思い返すと、町の子供達が誘いトンネルの怪談話で盛り上がっているのを耳にしたことがあった。無関心で聞き流していたが、『緑山トンネル』と言っていた。
緑山トンネルは昨日訪れた二つ目のトンネル。今から行っても夕方に着くだろう。そこで何か別のトンネルが存在する筈だ。
もはや執念で動く洋佑は、全力で自転車をこいだ。
午後四時五十五分。緑山トンネルへ到着した。真夏なので夕方と言っても白昼ほど明るく、蝉の鳴き声は昼間よりは騒がしくない。
「どこだ、どこだどこだどこだ」
茂み、木々の間などを探して回るも、トンネルらしいものは何処にも無かった。
これだけ望み、探し回っても存在しない誘いトンネル。噂はただの噂。怪談話は子供だまし。
次から次に現実的な意見が答えを導き出した時であった。
一人の行脚僧が緑山トンネルからお経を唱えて現われた。
誘いトンネルを探していたので気づかなかっただけか、始めは無視していた。しかし、「そこの御仁」と声をかけられて振り向くと、すぐ近くまで行脚僧が迫っていた。
恐怖で全身に寒気が走り、尻餅をついて驚くも、行脚僧はそれ以上近づいてこなかった。
普通の人間ではない。そう考えた頭が次に導きだしたのは、この人物が誘いトンネルに関係しているのでは? という疑問である。
「……貴方は……もしかして」
「目当てはすぐそばに。しかし今は無い」
もう、誘いトンネルの守り人だと洋佑は決めつけた。
「貴方は誘いトンネルについてご存じなんですか?!」
「誘い、と?」
「違うのですか? 死んだ人に会えるって」
「世で『誘いトンネル』と称するならそれも良し、【黄暁の通り】に変わりない」
名称の違いなどどうでも良かった。ただ、穂香に会える、それしか頭にない。
「あの、なんでそれは無いんですか? あるんですよね!」
必死に求めるも、行脚僧は様子を変えずに語った。
「黄昏《たそがれ》時と暁《あかつき》時。昼から夜、夜から朝。それぞれの狭間に出現する通りなり。通りを信じ、望み人を強く想う者の前にのみ現れる。それは執拗な想いが象る一本の通り」
黄昏時と暁時。その言葉から、夕方と明け方が浮かんだ。
「じゃあ、夕方でないと見つからない?」
確認は出来ないが、現在は午後五時を回っていた。
「否、黄暁の通りは暁時から入るが条件。故に翌、明け方まで待たれよ」
「じゃあ、何時にここへ来ればいいのですか?」
「来ずとも、通りは其方の傍にある。陽も出ぬ明け方に外に出ればよい」
突如、後方で何かがぶつかった音が聞こえ、その大きな音に驚いて洋佑は振り返るも何もなく、行脚僧の方に向き直ると、忽然と姿を消していた。
全身の寒気はより一層増し、外気の熱気が妙に心地よかった。蝉の声に蜩の声が混じって聞こえる。
徐々にこみ上げる嬉しい気持ちに満たされ、帰路につく足取りは疲れを忘れさせた。
明日、穂香に会える。
風呂屋へ行くと、湯船にゆっくりと長く浸かる。天井を眺め、なにも考えず、ただ呆然と過ごした。
ゆとりのある気持ち。これほど心が安らいだのはいつ以来だろうか。
洋佑の顔は穏やかになっていた。
八月十日午前四時。
どこからともなく錫杖の金環がシャンシャンと鳴る音を聞いた洋佑は、慌てて部屋を見回した。しかし、誰もいない。
またも金環の音が聞こえると行脚僧の言葉を思い出し、急いで着替えて外へ出た。
「黄暁の通りが現れた。向かうか?」
慌てて飛び出た洋佑の答えは決まっている。躊躇いは無い。
意志を聞き届けた行脚僧は錫杖を東へ向ける。すると竹藪が現われ、不自然なほどにトンネル状の空洞を作り、先に光り輝くものが伺えた。
周囲の風景が薄暗く薄ら藍色で染まった現状の光景では、その光はまるで日が昇っているかのようであった。
あの光輝く先に穂香がいる。行脚僧の話を待たずに洋佑は足早に向かった。
やっと穂香に会える。強い想いが頭の中に穂香の形を蘇らせる。
艶やかで滑らかな長い髪、きめ細やかな白い肌。
高すぎず低すぎない柔らかく優しい声。
品のある衣装。
お互いに好きな柑橘系の香水を漂わせて。
耳には幻聴で穂香の声が聞こえ、それが光の向こうから呼んでいると錯覚し、駆ける速度が上がる。
もう、眼前の光が希望の光だと決めつけている。
何度も笹の葉で足を滑らせながらも懸命に前へ前へと向かった。
ようやく光がすぐ近くに迫ると、向こうの光景がはっきりと分かった。
通りの向こうは夕陽か朝日か、とにかく淡い橙色の光を纏った、所々に花が咲いている草原。
その穏やかで心休まる光景が洋佑には天国として映る。穂香がいると思うと嬉しさが増す。
あと、五十m程に差し掛かった時、天国の草原に一人の女性が現れた。隣にいる誰かと楽そうに話している。
洋佑には女性が誰かすぐに分かり、大声で叫んだ。
「穂香! 僕だ! 洋佑だぁぁぁ!!」
しかし女性は一切反応を示さない。この距離で叫べば誰でも気付くのだが、穂香は笑いながら誰かと話していた。
「穂香! 聞こ――」
洋佑は壁にぶつかり後ろへ倒れた。
まだ草原の世界へ行くまでに二十mはある距離で透明な、まるでガラスのような手触りの壁に阻まれた。
「暁の通りはここまで」
いつの間にか後方に行脚僧はいた。
「目の前に穂香がいるんだ!! どうして会えない! せめて話だけでも」
「急くな。暁の通りは見るまでの通り。再会を望む意志を確かめるための試しの通り。自身の意志を固め、ようやく現われる黄昏の通りを通るための」
「じゃ、じゃあ、夕方に来ればいいのか?」
「其方が願い続けるなら黄暁の通りはいつも傍らに存在しよう」
「ああ、願い続ける! だからか今度は必ず」
行脚僧は錫杖を掲げた。
「……では」
地面に突き刺し金環が鳴り響くと、突風が吹き荒れ笹の葉を巻き上げた。
洋佑は腕で顔を隠し目を閉じた。やがて風が止み視界が開けると、借家の前にいた。
日は昇り、朝の清々しい空気で少し冷ややかな風が流れた。
次こそは、ようやく会える。迫る再会に興奮し、胸が高鳴る。
午後五時。
”いつも傍らに存在する”との教えなど関係無く、洋佑の身体が、意志が、緑山トンネルへと辿り着かせた。
「……穂香に会えるんだよな」
行脚僧は同じ佇まい、少し不気味な雰囲気をそのままに、向き合っていた。
「この通りの先、其方はもう戻れなくなる。良いのか?」
「当たり前だ。穂香のいない世界など地獄と同《おんな》じだ」
「件の女性がどういった者であってもか?」
「僕の優先は穂香だ」
行脚僧はこれ以上確認の言葉を口にしなかった。
「……通りの半ばに“揺らぎ”がある。それが現世とあちら側の境。それを超えるかどうかは其方次第。心して決められよ」
行脚僧が金環を鳴らすと、通りが出現した。その見た目は今まで調べたトンネル同様、コンクリートで固められた極々ありきたりな、それでいて不気味さが漂うトンネルであった。
トンネルの向こうは夕陽ではない明るい光が照っていて、洋佑にはそれが天国にしか見えなかった。
「……穂香……」
洋佑は警戒も躊躇いもなく、足は光のもとへと向かった。
思い出されるのは穂香との日々。
歓楽街で楽しそうだった穂香。
前の恋人と別れ、駅近くのベンチに座って泣いている穂香。出会いはそんな彼女を洋佑が心配した時だった。
穂香との出会いから洋佑は穂香といる時間が増えた。
買い物姿、仕事姿、洗濯物を干す姿、気さくに色んな男性と話す姿。
休みの日でも化粧や衣装に手を抜かない穂香。
たまに燃えるゴミの日を間違えたり、ひっそりと燃えないゴミを混ぜて捨てる、ちょっと悪い一面がちらりと伺える姿。
亡くなる前、楽しそうに追いかけっこをした楽しそうな姿。
思い出される穂香の姿が洋佑の速度を上げる原動力となっていた。
揺らぎと思われる、水面のような揺らめく壁を通り抜けると、揺らぎは波紋を広げた。
洋佑の視線の先、暁時の通りで見た朝日差す草原に穂香が現れ、笑みを自分に向けている。
「穂香ぁぁぁ!!!!」
揺らぎを超えた洋佑の姿は、草原にいる穂香にも見え、何気ないといった表情を向けると、洋佑の方へ歩を進めた。
「あ、穂香……穂香!」
距離としたら百メートルはあるのだが、近づく穂香が一瞬にして姿を消した。
「……え?」
驚いた途端、顔を両手で掴まれ、すぐ下から穂香が不気味な笑みを浮かべて現れた。顔面は蒼白で血まみれ、事故死の姿を彷彿させる。
「この変態野郎が」
洋佑は体が動かず、笑顔もひきつって麻痺した。
「あたしを追って、事故死させた。忘れたとは言わせない」
穂香は爪を立てて洋佑の顔をゆっくりと引っ掻き、血を流した。
その最中、洋佑の身体に幾本もの手が現れて巻き付いた。背中に何かがしがみ付いた。衣服が破れるほど力強く、身体に強く爪が刺さって肉が剥がれるほど引っ張られる。
それら全てが骨に皮が張り付いたような、見窄らしい人間だった何かのような。
「わああああああ!!! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だぁぁ!! 穂香ああああ!!」
叫びを最後に、周囲の光景全てが真っ暗に染まった。
トンネルの外で、行脚僧は真っ黒に染まって消えるトンネルを眺め、金環を鳴らして祈りをささげた。
八話
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