【中編】 レンズと具現の扉-⑧・完
15 男性の決意
――いつからだろうか。
バルドは恐ろしく長い眠りについていた様に、記憶も意識をも、取り戻す事に手間取った。
横たわっている事は分かる。ただし、瞼を開こうにも中々動かず、身体を動かすと、まるでさび付いた金属の部品を動かすかの如く、鈍く、重く、ぎこちない。
それでもバルドはどうにかこうにか体を横へ動かし、両手で目の周りの皮膚を動かし、瞼を開けようとした。
三分は経過しただろうか、何とか目を開けると、そこには刑事がこちらを見て立っていた。
「……刑事さん……」
呟いたものの、その言葉の意味が、刑事と呼ぶ男性の役職も、立場も全く違う事を思い出した。同時に、自分が今までどうなって、このような事になったのかを思い出した。
「俺が刑事って、そんな出鱈目な役で俺はお前の夢の中にいたのか?」
研究員の男性は、笑ってバルドの頭を鷲掴みのように撫でると、よく戻った。と言って、喜びを表した。
「どうやら、問題は解決したみたいだ」
今までの記憶であれ、今であれ、屋敷の管理者は変わらず同じ衣装、同じ顔、同じ振る舞いをしていた。
「どうやら俺は、命拾いしたみたいだな」バルドは扉の方を見た。
「感謝しろよ。俺がここを見つけなけりゃ、お前の周りを漂ってたレンズも消えなかったんだからよ」
言葉に反応し、周囲を見回したが、自分に寄り添っていたレンズは消え去っていた。
研究員の男性からの事情を聞くには、バルドがこの屋敷に入る際、バルドの体内にレンズが溶け込んだらしく、その現場は管理者の男性が目撃していた。
一度扉の向こうへ行って戻るも、バルドは回復を見せず、溶け込んだレンズも、身体から離れていない様子であった。
二度目、崩壊に巻き込まれたがそれでもレンズは取れなかった。一夜を外で過ごし、夜中、バルドが遊泳を始めだした時、研究員の男性はバルドが元に戻ったと安堵して様子を伺っていたが、湖から上がり、全裸のまま倒れた様子を見て、未だ回復していないことが判明した。
しかし三度目、何が起きたか分からないが、研究員の男性のみが崩壊に巻き込まれ遠くへ飛ばされた。
男性がどうにか一夜を明かした湖まで戻ると、一言も言葉を話さなかったバルドが声をかけ、喜びの余り、水遊びに興じ、そして、ようやく回復した。
「で、もう何ともないんだな?」
それでも記憶は消えたことにはならない。
過去の過ち、自らの独りよがりの単独行動が周囲の心配を他所に、一心不乱にのめり込んだことが、今回の騒動を引き起こし、未だにヴェルディオは回復を見せていない事実。
変えられたのは、バルドが正気を取り戻し、レンズが離れたことだけであった。それでも正気を取り戻し、冷静に物事を考察できるようになったバルドは、一つの仮説を導き出した。
「俺の身体はもう大丈夫です。夢か現か、今まで経験した事で、もしかしたらヴェルディオが元に戻るかもしれない」
そのことは、研究員の男性も可能性として見出していた。しかし、それを実行に移すには、幾つかの問題がある事も、同時に見つけていた。
「中々無理があるだろ。今回の一件で、あいつの嫁が一切のレンズとの接触を拒んでいる。ここへ連れてくることすらままならない上に、ずっと寝たきりで歩けないであろうあの足で、この扉を抜ける事が出来るか? あと、ここはもうすぐ閉館となる」
その事実をバルドは、管理者の男性に事情を訊いた。
かつて、炭鉱と伝統工芸品により、賑わいを見せていたトルノスは、三十年前の落盤事故により、炭鉱を獲る事が困難となってしまい、伝統工芸品を主に、街を立て直そうと励んだ。しかし、若者達が他国へ出て行き、職人の跡継ぎもおらず、街はみるみる寂れ、今では街に数件ある家に人が残っている位である。
現時点でのトルノスの人口は、四十人足らずであった。
管理者の男性はその説明を、踊り場の窓から街の様子を二人に見せて説明した。
では、なぜ男性はここへとどまっているのか。その説明もバルドは求めた。
落盤事故以降、家族を失い、心身共に病んでしまった女性がいた。
その女性はある日、浮遊するレンズと会話しだし、バルド同様、レンズに魅入られ、身体に溶け込まれてしまった。
見かねた街の住民達は、研究員の男性と同じように、具現の扉へ入れてみてはどうかという提案を上げた。そして扉へ入れた所、バルドと同じように正気を取り戻したが、再び思い出された記憶が災いし、扉を無理やり開けて入ってしまった。
以降、彼女は何処にも姿を現さず、以降この屋敷には度々女性の霊が出没する噂までたつ始末。
管理者の男性は、偶然彼女と遭遇して一目見て惚れ、魅了されてしまった。
再び彼女と会える事を願い、ここの管理職の役を担うと、彼女に事情を訊いた。その日、初めの扉を使用している間だけが彼女と会える唯一の時間である事が判明した。
年を重ねるごとに寂れて行く街。元々使用者の少ない具現の扉。
男性は、根気よくこの扉を使用する者を待ったが今回、とうとう彼女に今後の方向性について訊かれた。
昨日の事である。
男性がこの屋敷の管理職を続けているのは、当然彼女と会うためなのだが、彼女は、他にも具現の扉のような場所がある事を教えた。そこでは、ここのように、限られた時間、それぞれの場所での条件下で、彼女は現代に現れる事が許されるとの事である。
もはや待っているだけの、管理者の男性の今後を気遣い、無駄に歳をとっていく可能性を示唆し、旅に出る事を提示したのだ。
彼女が現れる場所は、彼女にも分からない。それは、普通の人間であった彼女は、トルノス以外の地域の事が分からない為、出現した場所がどこなのかが分からないからである。
男性は、それでも彼女が現れ、会えるのならばとばかりに、管理職の役目を降りて旅に出ることを決意した。
元々この屋敷は閉鎖する話が上がっていたのだが、男性のたっての願いもあり、長年使用されていた。
此度、ようやく任を降りたことで、閉鎖話が再開したのだ。
「本当にその女性を捜すつもりですか? 貴方の為を思っての嘘なのでは?」バルドが訊いた。
「彼女は既にレンズと関連した存在になっている。その証拠に昨日、君が最後に扉を通った後、彼女は姿を僅かな時間だけ現した。本来、彼女は扉をその日一度だけ使用した時にのみ現れ、それ以降は何度入ろうが現れない。再度現れた事情を彼女に訊いたところ、君の中に溶けたレンズが君から離れ、その余韻として彼女が姿を現せたそうだ。つまり、レンズによる現象が起こる場所に、彼女が現れる可能性は捨てきれない。それに、彼女が私を気遣っての嘘にしたとしても、私は彼女の言葉を信じたいのだよ」
「酔狂もいいところでしょ。なぜそこまでして」
管理者の男性は、愚問ですよ。と先に述べ、立ち上がり様に応えた。
「私は、彼女を愛しているからです」
16 かつて通った扉へ……
――およそ一月後――
バルドはトルノスの代表者に話を通し、屋敷の許可書を預かった。
バルドはアリサに何度も頼み込み、何日もかけた懇願の末、ようやくヴェルディオを預かることが出来た。そして、再び屋敷へ訪れた。
一月も経っていないのに、屋敷の内部は異常なまでに埃に塗れ、蜘蛛の巣も、壁に備えた本棚、そこに並べられた本達も、この一月では考えられないほどに崩壊が進んでいた。
何かが影響していたのか?
それとも、今までこういったことは度々起こっていて、それでもあの男性は、レンズの化身のような女性に会いたいがためにここを掃除していたのか?
真実を知る術はもう残されていない。
屋敷の外観に見合わない、だだっ広い踊り場を、ヴェルディオの右腕を自分の肩に回し、身体を左手で支えて担ぎ歩くと、自身が経験したことを思い出した。
今や扉内での事もうろ覚えではあるが、誰かが自分に告げた。
お前は周りが見えていないと。
確かにそうであった。周りが見えていないからこのような事態に変わった。
ある人が言っていた。自分は謎を解く手がかりを見つけるだけだと。
もう一月前になるが、不意に思い出した。その人物は、手掛かりどころか、悩みを大幅に解決へ導いていたのではないかと。
踊り場を通る度に些細な、断片的な記憶が思い出される。その事が今では嬉しく、ついついにやけてしまった。
何より、元に戻った今ならついつい言い返してしまいたくなることがある。
うろ覚えだが、依存症についての話だ。
彼らは過剰な依存症を病気のように言っていたのだろうが、過剰な依存に陥った者を依存症というのではないだろうか。
本来、彼らの言いたかったことは、バルド自身が、依存しすぎた者と言い換えるべきではなかったのだろうか。
まあ、そんな事を言っても、おそらく彼らには会えないだろうし、どんな姿をしていたかさえ覚えていない。
そんなくだらないやり取りを、これからヴェルディオはしていくのだろうと、バルドはしみじみと思えた。
やがて踊り場の奥。あの扉のある部屋へ辿り着いた。そして扉を開けると、その部屋だけがあの時のままである。
こちらは踊り場に反し、約一月は経過しているのに埃が少しも積もっていない。
毎朝拭き上げたかのように、所々の家具が、本が綺麗に保たれている。そしてあの、二羽の大鷲と綱の彫刻が施された、かつてどこかの職人が心血を注いで作られたと思われる、繊細で迫力のある作品の、艶やかな扉が二人を迎えた。
「今度は俺がお前の傍にいる。元に戻るぞヴェルディオ」
当然、ヴェルディオに返事は無い。
あの日、レンズの影響で周囲の人間に役を与えた。
自分か、憑いたレンズか、どちらにせよ描いた夢の、物語のような出来事を、話をすることの出来ない彼も見ているのかと思うと、バルドは一体どんな役を与えられているのだろうか。
ヴェルディオが目を覚ました時、その話を聞く楽しみができた喜びを胸に、バルドは扉を開けた。
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