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【長編】怪廊の剣士 二十四話

 黒碑から出たルシュは、暗くて冷たい水中へと戻る。違いがあるとすれば足の動きはやや速くなっているぐらいだが、これはルシュの無意識がそうさせている。本人は潜水時と同じ速度で動かしていると捉えていた。
 黒碑から得た憑きものの名、どういった生き物かを断片の風景が連続して見せてくる。それらが何を意味するかルシュには分からない。ただ、覚えている光景を思い出し、名前を心に反芻して忘れないようにする。過去二回の経験上、戻る頃には細かい部分を忘れしまうから。
 暗い水中で、何かが身体に当たる感触に怖れず、動揺せず、只管戻っている時であった。急に吸い上げられる感覚に陥った。
(――なんだ?!)
 正体は分からない。例えば巨大な魚が水ごと自分を吸い込んでいるのでは? と想像が働いてしまう。
 水流に抗えず、為す術なく流れていく最中、恐怖が増幅する。
 こんな所で死ねばシャレイは救えない。けどどう足掻いても抵抗出来ない力。
 死を覚悟した最中、視界の先で光りが見える。それは徐々に広がり、周囲の岩壁も鮮明に見えた。光りの正体が湖の外の光りである。
 前方には想像していた巨大魚はいない。妖鬼も悪鬼もいない。
 ではこの吸い上げる力は何か? その疑問の答えが分からないままルシュは湖から飛び出た。それは正しく天へ昇るように。
 水上へ出てすぐ、ルシュは驚愕するほどの存在を目の当たりにする。
 巨大な熊の手を生やし、全身に太い触手のような髪を靡かせ、緑色の巨大な目が三つ、口からは牙のようなものが外に伸びている。
 その怪物は黒碑の中で見た怪物に似ており、唐突に理解した。シャレイに憑きクオ一族の生け贄と定めた女を喰らってきた怪物だと。
 三つの目と目が合うも、ルシュは上空へと飛んでいく。まるで掴むように伸びた触手が掴み損ねた光景を上空から見た。

 ◇

 トビは剣術で攻め、宜惹を圧倒した。
 軽口一つ叩く余裕がなくなった宜惹は、術一つ起こすことなくトビの剣術の応酬を時に躱し、受け流し、数回身に受けた。
 対処に苦戦する宜惹に僅かな隙が生まれると、トビは剣に気功を籠め、振り抜いて飛ばした。
 さすがに休みない攻め込みは疲れ、飛ばした途端に呼吸を激しく乱した。
「やれやれ、ルシュの身体と分かってるのか?」
 飛ばされた先で宜惹は態勢を立て直す。細かな傷が綺麗に無くなっている。
(知ってて言うな、畜生が)
 ルシュが戻るまでの根比べ。圧倒的にトビが消耗するだけの持久戦。
「あー、さっさと戻ってこぉい」
 立ち上がり剣を構えた。途端、積乱雲の壁が上空へと流れ出した。その異変に宜惹はどこか安心の色を滲ませる。
 トビは焦る。ルシュの帰還は本体が光るだけだから。
 異変がこの場で起きている。
「誰か死んだのか?!」
 それしか考えられない。
 ルシュ、ラオ、シャレイの誰か。だとすれば事態はかなり悪い方へと進んでいる。
 たとえルシュが戻ってきてもクオ家の跡取りを死なせてしまったとあっては処罰されるのは目に見えている。どんな言い訳を並べても命乞いなど意味が無い。
 しかしそれを否定する考えも浮かぶ。兄妹が死ねば妖鬼の群れがこの場へ現われて宜惹に加勢するはずだ。ルシュが死ねば宜惹の動きがさらに良くなる。
 どれも違う。まったく想像していない事態が起きている。
 トビは周囲へ気を回しながらも、宜惹への警戒も怠らない。
「おっと、これは困ったぞぉ。せっかく檻へと入った獲物をみすみす逃してしまいそうだ」
 言葉に反して表情には余裕が戻る。
 事態が好都合なのか、何か術を起こしたのか。どうあれ宜寂に風が味方していると思われる。
「白々しい。てめぇのツラが“焦ってねぇ”ってよ! 一体何考えてやがる」
 トビは宜惹の表情から読み解こうと試みる。
「邪推に溺れて思考が鈍ったか? 目当てはシャレイを救う以外考えられんだろ。それに……」
 宜惹の身体。ルシュの本体が腹から光り出す。黒碑から戻ってきた合図である。
「ようやくお主の相手から解放だ。恐ろしい猛獣を前にしては、命がいくつあっても足らん足らん」
「どの口が」
 命からがら救われたのはトビのほうであった。これ以上は正しく命がけ。力配分と手段を間違えれば死に直結する状況だ。
「憑きものはてめぇの手にも負えねぇ筈だ! シャレイを殺せば憑きものとの対峙は目に見えてる。だからてめぇがシャレイを狙う理由がねぇ! 何が目的か言いやがれ!」
「おお嘆かわしい。紫寶の末裔が金に目が眩みすぎて耄碌したとは。何度も申しておるのにのぉ。目当てはシャレイを救うと」
 口元にあざ笑う様子が滲む。そしてルシュ本体が光る。
 悔しいが、トビは宜惹の心意を見抜けなかった。

 上空へと積乱雲が流れ、その勢いが増すと、周囲の地面からも濃霧が発生して上空へと流れる。一時、トビは激しく動く霧の中にいた。
 やがて全ての霧が晴れると、もとの放牧地へと戻った。
 そこには家畜も小動物も虫も。生き物が一匹たりともいなくなっていた。宜惹がいた所にルシュ、そして後ろにラオとシャレイが揃って伏せていた。
「クソが」
 トビは悔しがりながらも、倒れて気を失っているルシュの下へと向かった。
「ラオ様! シャレイ様!」
 木柵の外から霧が晴れるのを待っていたガロ、ヒギ、ウダは、伏せて気を失っているラオとシャレイの下へと向かう。
 冷静に放牧地を眺めたアザキは、凄まじい有様に気を揉んだ。
 放牧地は所々に大きな窪地と、大きな手で引っかかれた跡が残っていた。
(何がこのようにしたのだ)
 ルシュが目覚め、黒碑の情報を待つしかない。


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