【中編】 レンズと具現の扉-⑥
11 湖にて
目を覚ますと、あの湖の傍らで横たわっていた。
空の色、周囲の朱交じりの光景から夕方だと思われるが、前回と同じ光景であって、前回と違う点を挙げるとすれば、上空にレンズの塊がいくつか漂っている事である。
そう言えば以前はこれが無かった。いや何より、今までレンズについてあまり思い出していなかった。
あの少年に言われ、話を聞いて、ようやくこの世界にはレンズが当たり前のように漂っている事を思い出した。これが自然の光景なのだと。
今は残暑により少し汗ばむ日であり、夕方でもバルドは汗をかき、今までどれほどここで寝ていたのか、服は汗で湿っている。
ちょうどいい。とばかりに上着も下着もすべて脱ぎ、早く乾く様に夕日の当たる木の枝に衣服を吊るすと、勢いよく駆け、思い切り湖に飛び込んだ。
今までと違い心にゆとりを持てたバルドは、今いる場所の事を冷静に向き合えるゆとりを持てたことに気づいた。
この湖は、とても水質が綺麗である。飲み水としてはどうかと思われるが、まあ、このような姿で泳いでいるし、この湖を飲み水として使っていると聞いたことが無い。それにひと気も無い。
恥ずかしながらも、大胆に仰向けで浮いていると、遠くから叫び声が聞こえた。恥ずかしくなり、急に肩まで水に浸かる姿勢に戻ると、どうやら刑事が駆け寄って来た。
「ようやくここへ来れた」
「今までどうしてたんですか?」
そう訊くと、刑事は驚いた様子をバルドに向けた。
何かまずいことを訊いたと抱いたバルドは、少し下がった。
刑事は何か嬉しい事があったかのように、上着のボタンを外しだした。
「ずいぶん遠くまで飛ばされて、ようやく来れた。もう汗だくで暑すぎだ。俺も入るぞ」
叫ぶ前からズボンも下着事脱ぎ、あの時見た筋肉の引き締まった、浅黒く男らしい姿が露わに、当然恥部を隠すことなく、堂々と湖まで歩み寄ってくると思い切り飛び込んできた。
泳いで傍まで寄られると、勢いよく水上に飛び出してきた。
二人は特に変わった会話をするでもなく、互いに年甲斐もなく湖で騒いだ。
12 待ってるから
三日目の朝。
もはや屋敷に来たての頃のバルドと人相が変わりつつある彼を、男性は具現の扉へと見送った。
前日同様踊り場で足音が聞え、例の女性の来訪と判断して男性は部屋を出た。
案の定、女性は男性が美しいと思える歩き方で、容姿、人相も美しく穏やかで和やかな気持ちにさせた。
距離をおいて立ち止まった彼女に、男性は込み上げる想いがあるのを感じた。
その中には愛情もあるが、それ以外にも聞きたいこと、この出会いが最後だという根拠のない勘、それによる焦り、それら諸々の湧き上がる感情を抑えながら、最後の最後まで彼女の前では紳士的に振る舞う意思を貫き、慌てず、落ち着いて歩み寄った。
彼女の前まで到着すると、彼女のその華奢で、それでいて滑らかで綺麗な、指先までの力の抜き加減が絶妙な右手を男性の前に差し出した。
「踊って頂けるかしら」
声も高すぎず、聞き取りやすい声量で心落ち着く。
断る理由のない男性は、仄かに笑顔を浮かべ、喜んで。と一言告げて手を取った。
先行して男性が動き、彼女の右手をしっかりと、しかし力は抑え添えるように、柔らかい小鳥を包み込むような加減で掴み、左手も彼女の腰に優しく回した。
音の無い部屋で、軽やかに二人は歩を進め、二人だけの舞踏会場を、優雅に、そして滑らかに足を運ばせ楽しんだ。
時折彼女は上体を逸らせたり、二人の右手は握ったまま離れては、再び戻る。
呼吸も動きも揃い、安定した動きを続けた。
一頻り踊ると、彼女は動きを止め、それに続いて男性も動きを止めた。
「……何も訊かないのね」
男性に背を向けたまま訊いた。
「君との限りある時間だ。挨拶がてらの無粋な質問で雰囲気を壊したくない」
「……気づいているのでしょ。もう、あの青年は最後だって」
男性は即答せず、一呼吸ほどの間をあけ、ああ。と告げた。
一分一秒が惜しい状況で、訊きたいことを次々答えてもらいたい感情を抑え、男性は、この静かで穏やかな時間に見合う振る舞いを続けた。
――それにより、幾つかの質問が出来なくなろうとも構わず。
「具現の扉を利用する者を見ていると、最後という時は顔つきが変わるんだ。あの青年も有難い事に三日も有したが、今回が最後。一度の利用回数が最長のお客人だったよ」
女性は振り向きざまに微笑み、そしてまた窓の外を眺めた。今度は窓際まで行かず、その場からである。
「これからどうするか。決めたの?」
前日彼女と話した内容。再びこの屋敷を利用する者が現れた時、彼女に会える機会は訪れる。しかし今回のように、久しぶりの客人が訪れる事は稀であり、今後あの扉を利用する者の数はもっと減るだろう。
理由を訊いた彼女は窓際へ寄った。
「ああ。決めたよ」
男性は、その意向を彼女に申した。すると、女性は目を閉じ、今まで呼吸をしているのかさえ分からないほどに胸の動きが無かったのに、この時は、抑えていた何かを呑みこむかのように大きく、胸部が膨らむほどに呼吸をした。
そして息を吐くと同時に、零れた涙が頬に一筋の透明な線を残した。
不意に見せた女性のその姿に、男性は諸々の質問を忘れ、ただ一つだけが残された。
その質問を言い出す事が難しく、ようやく出た時、何分経過したか分からなかった。
「……昨日、どうして再び現れたんだい?」
女性は、自分の涙の真相を、照れ隠しのように一度、笑んで誤魔化し答えた。
「だって、彼――」
男性が理由に納得すると、今度は女性が願いを述べた。
一度だけ、抱きしめてほしい。
普段の男性なら、ここぞとばかりに心臓の鼓動が高鳴り、全身の血の気が騒ぐほどの悦びとなるのだが、この時は不思議とそれが無く、喜びはあるもののこみ上げるものが無く、穏やかな気持ちで女性の傍まで寄り、そっと抱きしめた。
お願い、もう少し強く抱きしめて。
自分の胸に顔をうずめた女性の背を、腰を、自分の元まで引き寄せ、背に回した方の手で彼女の後頭部を押さえ、自分の胸に強く顔を押し付けた。
女性は一言。待ってるから。と言い残し、間もなく姿を消した。
姿を消したと同時に、具現の扉の部屋から何かが倒れた音が聞こえた。
女性が姿を消した余韻に浸り、男性はすぐに部屋へは向かわなかった。
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