【長編】奇しき世界・五話-2/2 静かな真夏の歪む町(中編)
1 雨の日の
平祐が町の異変に気付き始めたのは五月に入ってすぐ。世間一般ではゴールデンウィークなのに、人通りが少なすぎる事が切っ掛けであった。
連休明けには、町の至る所で行方不明事件が起き、通り魔による殺傷事件が増えた。
どの事件も共通して起きる時間帯は夜。警察の見回りも増えているが、事件発生は起き続けて犯人も見つからない。
町の住民も事件を恐れてしまい、問題ないとされる昼間であれ、賑わいを見せる駅周辺の人通りはまばらであった。
さらに数日が経ち、今度は別の異変が起きた。
夜中に黒い縦長の影が出歩く。
風景の一部が別の景色に変わる。
ある一角だけ季節が違う。
突如、町のどこかが血塗れになる。
夜、女性が高笑う声が響く。
他にも色々あるが、一番奇妙なのは、その異変に気付いているのは平祐だけであった。
”この町は普通じゃない”
心に抱いた平祐は、美野里や、まだ産まれていない子供達の為に一刻も早い引っ越しを検討した。
しかし、美野里は引っ越しを嫌がった。
三か月後に出産予定なのだから、他県への引っ越しはストレスと負担が大きいのだろうと、拒まられた理由を考え、流産を恐れた平祐は、素直に受け入れた。
町で起きている事件や異変から美野里を守る方法を考え、導きだした答えは、”夜出歩かなければいい”である。
人間に害が起きている事件は夜に起きているのだから、それしか対処は考えれなかった。
平祐は、出産日まで、気が気でない日々を過ごした。
仕事に影響がない時は絶対夜に出歩かず、美野里の妊娠を言い訳のネタに飲み会にも行かなかった。
ただ、少しでも美野里から異変と事件から遠ざけた暮らしを維持する事に専念し続けた。
気苦労の多い五月を終え、六月の梅雨時期を迎えた。
今年は例年に比べて、雨天日と晴天日の違いがはっきりした。
雨天日は分厚く濃い灰色の雲が空を覆い、土砂降りとなる。
晴天日はほぼ快晴である。しかし、前日は必ず雨天なので湿気も多く、呼吸をすると鬱陶しく、湿った印象の強い臭いがする。
雨期の天気はどうあれ、平祐の生活スタイルに変化はなかった。
”もう二か月で自分も父親になる”。その意志は強まっていた。
ある日の事。その日は天気予報で梅雨最後の豪雨と予報されていた日の夕方であった。
平祐は、マンション近くのコンビニで酒とつまみを購入した帰りに、噂されてる縦長の影を見つけた。影は、自分達が住むマンションへと向かっている。
平祐は恐れながらも尾行し、影がエレベーターに乗った姿を見た時、焦りが生じた。
影が自分達の家に行かないことを願い、階段を駆け上がった。
先に自分達の住む階まで到達した平祐が呼吸を整えていると、エレベーターが到着して、ドアが開いた。そしてゆっくりと降りた影は、彼らの部屋がある方へ向かった。
「それ以上行くな!」
平祐は影の前に立ちはだかって叫んだ。
強気に出た割に、足は震え、心臓は掴まれたように苦しく、呼吸もしにくい。生きた心地がしない。
そんな恐怖心を他所に、影は変化を示した。それは、顔部分の影が薄れた事である。
その変化は、平祐の恐怖を消し飛ばす程であった。
影から色白い人の肌が現れ、やがて顔の輪郭がはっきりした。
影は美野里であった。妊娠していない細身の姿で。
正体が判明した途端、影は消し飛んだ。
無人の通路に一人立たされた平祐は、美野里の身を案じ、急いで帰宅した。
寝室へ向かうと、美野里は心地よい寝息を立てて無事だと分かった。腹に耳を当て、双子の安否を確認するも、異常はない。
平祐は安堵した。しかし、異変が自分達家族に何かしようとしている不安が増大した。
2 異変について語る
八月六日、十五時十分。
斐一、斐斗、岡部の三人は、部屋で町の異変について考えを巡らせた。
現時点で分かっている事はノートに書かれている。
1、 八月六日十時過ぎ、三人揃って空気が張り詰める現象を感じた。
2、 叶斗が短距離だが瞬間移動する。時間も早く進む。
3、 町に人間の気配が無さすぎる。
4、 町には小さな神社と寺があり、特に変わったところはないが、足を踏み入れたら肌寒い。
5、 霞んだ人間が現れ、才能型の力が効かない。(リバースライターは不明)
6、 広沢平祐の妻・美野里が奇行に出る日がある
7、 美野里は周囲の変化などを感じない(気にしないのか、異変すら認識していないかは不明)
全てに目を通しても一貫性がない。
町全体が土着型だとしても、町全体の面積に見合う神話や有名な神社仏閣がない。岡部が持参した町に関する歴史資料からその事が分かる。
「こりゃぁ……ちょいと面倒が過ぎねぇか?」
岡部は胡坐を掻き、膝に肘をついた状態で顎髭を摩った。
「どう見ても単純な奇跡が起きたとは思えんぞ。土着型がしっかり絡んでやがるのに種類の違う奇跡がある」
斐一は町近辺の資料に目を通した。
「とはいえ、我々の持ち寄った情報からだと、異変は町全体を覆っているように見えてならない。しかし、土着型では現象が弱くて少なすぎる」
「新種とか、移動する土着型とか?」
斐斗も案を出すが、どうもしっくりこない。それは、岡部と斐一の表情からでも伺えるが、斐斗自身も何か抜けていると気付いている。
「……この、広沢さんの件は、どういう経緯で知ったんです?」
岡部が答えた。
「そいつぁ偶然だ。組合に情報が入ったんで下見したら、その夫婦が別の奇跡に絡まれてたんだ。担当した奴が平祐君と話付けてくれて、ワシと斐一で相談を。って流れだ」
「って事は、この町に住んでて、……奇跡に絡まれた。と?」
今度は斐一が答えた。
「順番は先に広沢夫妻だ。と言っても、異変を感じたのがご主人のほうで、仕事疲れか奥さんとの新婚生活で浮かれてか。とにかく、変なふうに見間違えたかもしれないとの事だ」
岡部が補足した。
「組合に情報が入ったのは今年の三月。異変が起きたのはその数日前だ。平祐君の微かな異変を感じたのはもっと前だから、別物と思っていいだろ」
斐一は美野里の憑き物を思い出すと、眉間に皺を寄せた。
「あの憑き物は厄介だぞ。存在そのものは不明瞭だが力が強すぎる。しかも相手は妊婦。どうやって手を打つか、だ」
実際、広沢夫妻を見ていない斐斗からすると、どんな様子かが気になる。
「そんなに危険な奇跡が?」
岡部が答えた。
「ああ。アレはリバースライターで存在を書き換えるモノじゃない。やったらやったで、かなりの反動がお前らと奥さんに来る。とてもじゃないが、その反動は人間風情が背負いきれるもんじゃない。順を追って手を打たなければならない」
「手立ては?」
「ちょいとレンギョウの意見待ちだ。ああいった面倒なもんはあの人の十八番だからな。今、組合経由で伝達してもらってる」
「けど、奇行に走る傾向があるって事は、誰かが見とかないと」
今度は斐一が答えた。
「しかし止めようがない。下手にこちらが力を使えば、異変が暴走して、流産って事も」
斐斗は訊くのを止めた。ここで議論したとしても、自分が見ていない事には考察も手の打ちようも思いつかない。
「ねぇ。妊婦さんって、今朝海に行ってた?」
突如、畳で寝ていた耀壱が訊いた。
「ん? 耀壱知ってるのか?」
「その人かどうかは分からないけど……、妊娠してた人とは海でばったり。結構、お腹デカかったからもうすぐ生まれるんじゃないかなぁっていう人」
ほぼ高い確率で耀壱の出会った女性は美野里だと思える。
「それ、九時から十時半の間か?」
岡部と斐一が広沢夫妻と会ったのは十時四十五分過ぎ。海から車で戻ってくるのに十分足らず。耀壱と叶斗が海へ行った時間とを照らし合わせれば、その時間内だと考えられる。
「たーしーか……、十時十分ちょい過ぎだったかな。妊婦さん見て、ちょっと経ってから時計見たから」
明確な時間かどうかは分からないが、斐斗達がそれぞれ別の場所で奇妙な寒気を感じた時間に当てはまる。
耀壱と美野里が会ったと仮定して、三人が感じた異変がその影響だとしたら、なぜそれぞれが離れた位置で感じるのかが気になる。
耀壱と美野里の接触が起こしたと思える理由は、美野里の奇跡がひどく歪んだ力。一方、奇跡の在り方を書き換えられた耀壱は、自分に害を成すモノを寄せ付けない体質となっている。
二つの力が何かしらの作用を起こしたと考えれば辻褄が合う。
本来、どのような奇跡であれ、特定の複数人に寒気を起こすのは不可能である。五人の位置が離れすぎていたなら尚更。
しかしそれが出来たという事は、耀壱と美野里の起こした現象は、町全体を波紋のように広がったと考えるのが妥当であり自然である。
斐斗は何かに気付いた。
「もしかして、耀壱と広沢夫人が会った事が影響して、霞んだ人が現れる引き金になった……とか」
考えられなくもない話である。
町の情報は時間に関するものだけであった。しかし、奇跡に絡んだ二人が接触した後で新たな現象が起きたなら可能性はある。
岡部は座ったまま背伸びをした。
「あー。面倒な問題だな。もっと情報を集めてレンギョウに見せて解決させよう」
「そんな事したら、あの人怒ってきますよ」
「楽だし安全だろ。そんで、ワシらは指示に従って確実に解決する。これで明日の帰宅日に間に合う寸法だ」
元々この問題は、二泊三日の旅行期間内に終わらせる計画であった。
本当にこんな事で良いのかと、斐一と斐斗は思ったが、対抗できる情報も術もない。仕方なく岡部の案がまかり通てしまった。
「そんじゃ、ワシは組合に報せてくるから。夕飯までには戻ってくる」
と言って、姿を消した。
「俺、広沢さんの所に行って来る」
「一人で大丈夫か?」
「あ、僕もついて行く」
どうしても早く出歩きたい耀壱であった。しかし思惑は無残に散った。
「お前はおとなしく寝てろ。熱中症を侮るな」視線を斐一に向けた。「霞んだ人は問題ないと思うし、それに、動いて情報を入れないと分からない事だらけだから」
「そうか。気を付けて行けよ」
斐斗は部屋を出た。
3 斐一の苦悩
十七時四十二分。
斐一の携帯電話にメールが届いた。相手は斐斗であり、広沢家に訪れて平祐と話をしている最中、美野里が陣痛を起こし、急いで病院へ向かったとの内容が記されていた。最後に、後で電話すると加えられていた。
「兄貴から?」
既に戻っていた叶斗は、何気なく気付いた。
「ああ。よく分かったな」
「ぐらいしか考えらんねぇだろ。おっちゃんはメール苦手だし。どうせ、なんかあったからとりあえずメールで報せて、後で電話報告だろ」
見事に読みが的中され、斐一は何も言えない。
「……叶斗、明日帰るが、土産とかは買ったか?」
下手な気遣いだと斐一は思っている。しかし、良い会話が思いつかない。
「どうでもいい。んな事」
素っ気なく返されるのは当然の結果であった。
「……悪かったな。家族旅行と言って無理やり連れてきたのに、仕事に感けてばかりで全然楽しめずに」
斐一は、叶斗の不穏な雰囲気が旅行と仕事を両立させてしまった事にあると考えた。
「別に。俺もう二十歳だぜ。むしろ、親と一緒に買いもんとか海水浴とか、ガキじゃねぇんだから」
斐一は「すまん」と呟いた。それは、まともな旅行も出来なかった謝罪と、叶斗に隠している秘密が、心情に大きく影響していた。
「……俺、先に風呂入ってくる。どうせもうすぐ兄貴から電話かかってくんだろ」
そういって立ち上がり、荷物から着替えを取り出した。
「叶斗、別に父さんは」
叶斗の言った通り、斐斗から着信が入った。
音に反応する素振りを見せず、叶斗は部屋を出た。
追いかけようとするも体が動かない。それは、追いかけても話せる言葉が浮かばないからであった。
もう、”斐一の時間”にも限りがある状況で、叶斗とこんな間柄で済ませて良いわけがない。
思いに反して行動も言葉も改善の動きをとれない。
もどかしく、息子の心情もくみ取れない歯痒さを、大きく深呼吸する事で内に抑え込み、電話に出た。
「もしもし親父、今電話して大丈夫?」
「ああ、問題ない。トイレに行ってただけだ。それで、広沢夫妻に変化があったのか?」
無理やり嘘を吐きとおした。この期に及んでも尚、仕事に取り組む自身の性根に嫌気がさす。
「それが、陣痛が普通じゃなくって、奥さんが起き上がって、まるで予言のような事を言って、陣痛は車で病院に到着してから」
「それで、子供は産まれたのか?」
「まだ。けど、状況は結構ヤバいかもしれない」
「どういう事だ」
「病院に人がいなさすぎる。まるで出産の為だけに人を揃えた感じだ。あと、霞んだ人も現れた。もしかしたら俺達、思い違いをしていたのかも」
斐斗が導き出した可能性を聞き終えた後、急に電波が悪くなったのか、声が聞こえなくなった。
「斐斗、おい」
急に通話が切れ、ディスプレイを見ると、圏外の表記がされていた。
(――そんな!? 今まで普通だったのに)
事態がまるで読めないが、考えを巡らせて二分後、突然、斐斗からの着信が入った。電波は正常である。
「――親父! 大丈夫か」
なぜ心配されるか疑問が浮かんだ。
「斐斗、無事か! 急に電波が悪くなって聞こえなくなった」
「時間がない。端的に言うけど、こっちは大丈夫。あと、そっちに耀壱いる?」
「ああ、換わろうか?」
「いやいい。叶斗と親父は耀壱と一緒にいれば無事だから。そのまま旅館出ないで。それと、今日は帰らないから――」
そこまで告げると、電話が切れた。
何度も斐一は斐斗を呼ぶも返事はなく、またも圏外の文字が表示されていた。
斐一は、斐斗が告げた仮説を考察した。
“町の異変と広沢夫妻の異変は、まるで違う奇跡だけど関係性はある”
これを告げた斐斗は、まだ全容が把握できておらず、目の前で起きる異変の数々に翻弄されている。しかし、電波が通じた斐斗は、何かを分かっていた。その証拠に、「耀壱と一緒にいれば無事」と断言した。
この町では時間が急速に進む現象が起きている。もしかしたら、この開いた時間に、異変と解決に至る何かが起きた可能性は十分に考えられる。
斐斗の電話で考察出来る事はここまでだが、ここからは手元にある情報で考えなければならない。
耀壱と一緒にいれば無事とはいうが、急な異変によりそれが叶わない場合も考えられる。
結局、手立ては考えなければならない。
「おーい、今戻ったぞぉ」
長距離を歩き終わった後のように、汗だくで上着を濡らした岡部が部屋に入ってきた。
「あー、涼しいぃ。あれ? 斐斗と叶斗は?」
「岡部、進展があったぞ。だが、その前に斐斗は別件で異変に巻き込まれて今日は戻らん。事情は分からないが、とりあえず無事だそうだ」
「あー、ちょい待ち。話の前に風呂に入ってくるわ。どうも頭の整理が追い付かんからな」
「ああ。じゃあ話は風呂上がりで。今、叶斗も入ってる」
岡部はカバンから着替えを取り出し、風呂場へ向かった。
寝ている耀壱を他所に、斐一は斐斗から聞いた情報を元に考察を巡らせた。
約五分後。一つの仮説が浮かび上がり、その説と今ある情報を照らし合わせて筋道を立てていった。
(冗談だろ。……こんな事が)
「お客様、失礼します」
部屋の外から、年配の女性の声が聞こえ、「どうぞ」と返事をすると、女性は戸を開いて頭を深々と下げた。
「この度を当旅館へご宿泊いただき、誠に――」
丁寧な挨拶をする女性は、女将と名乗った。しかし、考察を終えた斐一には、別の存在に思えてならなかった。
「女将さん、一つお伺いしたいのですが」
「はい。どのような御用件で」
「昨日から利用させてもらっているのですが、一つ気になりましてね。ああ、大したことじゃないし、旅館に対するクレームでは御座いませんので」
「ありがとうございます。では、どのような……」
「海水浴シーズンは、こちらの旅館も繁忙期だと息子がネットで調べてくれました。ですので、この鬱陶しい程に暑い夏でも、人ごみを覚悟して来たのです。けど、町は人通りが少なく、この旅館も、他の客と出会わない。……いや、”出会っているが認識していない”が正しいかと」
斐一は、旅館を歩くと人がいる気がしていたものの、それを当たり前だと認識していた。
本来なら疑問にしか思わない出来事も、斐斗の電話を機に思考していくと、その事実に辿り着けた。
「それは……また、不思議な事で」
「今もそうだ。外には誰一人としておらず、部屋の外も従業員すら通っていない。夕食時で人はもっといていい筈なのに」
「……何を仰りたいので?」
「女将さん。妙に思っていませんか? どうして私がこうも淡々と異変について語れるかを」
女将は黙ったままジッと斐一を見た。
「先ほど、ようやく奇跡の絡繰りを理解しましてね。私の力で少しだけ、私個人の筋書きを書き換えたのですよ。そうすればこうして対等に会話が出来る。あなた”様”もそれに気づき、確認のために来たのでしょ? この町全体に影響を及ぼした奇跡の主であるあなた様が」
女将はゆっくりと深呼吸をし、口を開いた。
4 病院に現る
斐斗は焦った。
広沢家へ訪れ、平祐に軽く自己紹介をしている最中、虚ろな表情で現れた美野里が、予言めいた言葉を淡々と語り、病院へ行くように促した。そして病院へ着くなり陣痛で苦しみ、そのまま分娩室へ。
平祐と共に通路席に残されるも、どこをどう見ても患者や病院関係者の数が少なすぎる。もっと言えば、ここへ来るまでに人も車も殆ど見ていない。
斐斗は直感で判断した。
“町の奇跡が広沢夫妻の出産を手助けしているのではないか”と。
一つの仮説が浮かんだ矢先、分娩室前の通路に、霞んだ人が現れた。
「お、おい。……なんだアレ」
驚く斐斗の横で、平祐が霞んだ人を指さして恐怖の感情を露にする様子から、”見えている”と分かる。
斐斗は咄嗟に人差指を立てて自分の口へ当てて静かにするように合図した。
不安と恐怖で動揺を隠せない平祐は、斐斗を信じて黙り、霞んだ人の動向を見届けた。
霞んだ人が二人の前を通過すると、そのまま通路を突き進んだ。
何事もなかった事に安堵する最中、別の方を見るとまたもや霞んだ人が現れた。それは、あちこちにであった。
「斐斗君、どうなってんだ?」
「分かりません。町でも同じような事がありましたし」
不安が払拭できない二人の前を、悠々と霞んだ人は通り過ぎてを繰り返した。その様子は、まるで病院関係者か患者のようである。
「親父に連絡してみます」
そう言って、斐斗はメールで伝えきれなかった内容を話す為、電話をかけた。
小声で斐斗が斐一と会話している最中、平祐は、次第に増える霞んだ人の数体が、次々に黒く染まるのを見た。
その姿は、町での異変が増した際に見た、美野里と同じ顔をした黒い影である。それが、一体、また一体と増えていく。
「斐斗君……あれは」
斐斗もその黒いモノを見て、焦った。
黒いモノの出現により、電波の通りが悪くなった。
「親父?! ――もしもし、親父!」
ディスプレイを見ると、圏外の文字が出ている。
斐斗は、通路の両端から迫る黒いモノに対してどう手を打つか、必死に考えた。しかし、黒いモノに関する情報が無いので考察出来ない。
平祐は知っている様子だが、話を聞いても美野里がこの姿で現れて消えた。ぐらいの情報しかない。
害があるか分からないが、ジッとして、触れられた途端に窮地に立たされる不安が芽生えると、斐斗は相手の性質を理解することなく、リバースライターで相手の存在を書き換えようと試みた。
静かに、そして大きく深呼吸して構え、心の中で覚悟を決めた途端であった。
「お待ちよ。軽々に先走るもんじゃないよ」
すぐそばで聞き覚えの女性の声がした。
同時に、構えた手を後ろから捕まれ、振り向いた矢先、空間が病院の通路から、見覚えのある神社へと景色が変わった。
その神社は、斐斗が調べていた寒気のする神社であった。
「え? どうして?!」
平祐も連れてこられた。
境内の縁側にここへ連れてきた女性が腰かけていた。
「レンギョウさん。……どうして」
「その説明は後回しにさせてもらうよ」
危機的状況であっても、構いなしと言わんばかりに悠々と余裕ある様子は崩れない。
「こっちが話を進めても、そちらさんは状況が理解できてないだろ?」
平祐の方を見た。
状況が呑み込めていない平祐に斐斗は、簡単に、レンギョウの紹介と、別の空間へ移動する力があると説明した。
人間離れした現象を即座に受け入れるのは、俄然無理な話しであり、平祐は深く考えず、とりあえず助けられた事だけ納得した。
「つまり、あのレンギョウって人は味方で、助けてくれたって思えばいいんだな」
「はい」
それで話が進むならいい。と、斐斗は納得した。
「随分と端折った説明だけど、それで話が進むならまあいいとしようじゃないか」
レンギョウは微笑んだ表情を崩さない。
「レンギョウさん、あの黒いモノや、あの町の事について何か知ってるんですか?」
「美野里は無事なのか? あの黒い奴に、以前、変わった事があるんだ?」
「まあ落ち着きなよ。そう質問ばかり投げかけるもんじゃないよ」
レンギョウは立ち上がり、一歩踏み出すと、二人の後ろへ瞬間移動した。
「焦る気持ちは分かるけど、ここは時間干渉を遮断した空間なんだ。長居は禁物だけど、まあ、説明するぐらいの暇は平気なんだよ」
理解できていない様子の平祐へ、斐斗は簡単に説明した。
終えると、レンギョウは続けた。
「説明の前に聞かせてもらうよ」斐斗の方を見た。「斐斗は今回の奇跡、どう読むんだい?」
「どうもこうも、分からないことだらけですよ。けど仮説ですけど、平祐さんの奥さんの身に起きてる奇跡と町の奇跡は、全くの別。だけど、何か関係があると思います」
「さっき斐一に話したやつだろ? それが届いたなら、あっちはあっちで本丸と向かい合うのは時間の問題だからほうっておいて問題ないだろうさ」
「親父は掴めてるって事ですか」
「いんや、答えが近くにいるってだけだよ。でもまあ、斐一はあんた以上に少ない情報で正解を突き止めるからね、これは場数の問題かな」
今度は平祐の方を見た。
「お前さんが知るには少々覚悟が必要になるよ。それでも聞くかい?」
「あ、ああ。俺は美野里の夫だ。知る権利は」
「他人の死が関係してるって意味だよ」
平祐は黙った。
5 増殖と策
レンギョウの告げた言葉が、不安定な覚悟をぐらつかせ、平祐に動揺を誘った。
「お前さんの妻は、少々面倒なモノに魅入られちまってる。そして、並大抵の覚悟で知るべき真実じゃないんだよ。嫌なら金輪際、妻と関わらない方が双方にとって賢明だ。曖昧な気持ちで付き合えば、前途は多難を通り越して地獄かもしれないんだよ」
平祐は、胃が苦しくなり、胸も苦しくなり、それでも呼吸を整えて耐えた。
「……それでも、何ができるか分からないけど、俺は美野里の夫で、産まれてくる子供らの親父だから。……教えてください」
レンギョウは平祐の覚悟を受け入れた。
「じゃあ、お前さんの妻。……ちょっと長いねぇ、美野里と言わせてもらうよ」
平祐は了承した。
「結論から言わせてもらうと、美野里は、かなり厄介な奇跡。この場合、化け物と称したほうがお前さんには理解しやすいだろうねぇ。その化物に憑かれちまったんだよ」
「化物?」平祐は訊き返した。
「ああ。ちょいと面倒な所へ足を踏み入れたか、偶然、奴に魅入られたかして憑かれた。その辺はどうしようもない事だから、誰のせいでもないんだよ。問題は、その化物の行為」
「美野里に憑いてる奴は何をしたんですか」
「他者の生気を吸うんだよ、自分を維持するためにね。厄介な事に、宿主に影響はないから、憑いた奴を探すのは困難なんだよ。けど、化け物が憑いてる者の周囲では色んな変化が少しだけど起きているんだ。お前さんも経験ないかい? 幻覚のように一部の未来を見たり、思い違いのような出来事を経験したり」
思い当たる節は沢山あった。
「幻覚、予知、予測、時間屈折。まさに色々な変化だ。化け物自体はただ生きてるだけだから、それ自体に問題はないんだよ。けど、宿主が女性であり、妊娠した事が多大な被害を被っちまったんだ」
斐斗は何かに気付いた。
「まさか、繁殖?」
「正確には分裂かもね。奴に生殖能力は無いからねぇ」
平祐は嫌な予感がした。美野里の妊娠が分かって以降、町では行方不明者や犯人不明の殺傷事件が相次いだからだ。
「妊娠によって、化け物は大々的な生気が必要になった。いや、生命力と言い換えた方がいいかな? 奴は、夜な夜な人を襲い、いよいよ人を喰らうように凶暴化したんだよ」
美野里の妊娠により、化け物が人を殺した。妊娠の片棒を平祐も担いでいる事になる。
「ちょっと待ってください。広沢さんは双子が産まれるんですよ。まさか、奴は双子に」
「それぞれ、分裂体が憑くだろうねぇ。しかも美野里に憑いたモノより輪をかけて厄介な存在になる。人死にがその子たちの周りで相次ぐのは目に見えてる」
平祐は焦った。こんな話の流れでは、双子を殺す他、手の打ちようがないとしか考えられない。
「俺の……」
震えが止まらない。どんなに体に力を入れても、全く。
「俺の子供はどうなるんですか?」
予想と別の答えを切望した。
「殺すのが最善策ではあるねぇ」
初めに言われた覚悟の意味が明確になった。
「――待ってください! これから産まれてくる俺らの子供を殺したくない!」
「レンギョウさん、他に方法は無いんですか!」
二人は必死だった。当然、誰かを犠牲にして化け物を退治する事を拒んでもいるが、何より、これから産まれてくる子供を殺す選択を取りたくはない。
「お待ちよ。最善策って言ったろ」
「だからって」
「最善って事は、そうでない策もあるって事だよ」
斐斗と平祐は落ち着きを取り戻した。
「最善でないから、いつ終わるか分からないし気苦労絶えないよ。宿主と化け物、両方を生かし、共生共存を優先した方法だからね。当然だけど、色々と面倒も背負いこまなきゃならないよ」
「なんでもいい。俺は何でもする。だから、方法を教えてくれ」
レンギョウは目の前で手を叩いた。すると、一瞬の内に和室へと移動した。
周囲の変化に戸惑っている二人を他所に、レンギョウは、和室の中央に、書道が出来る準備が整った場所へと向かった。
「まず、お前さんには、親として当然の役目を全うしてもらうよ」
平祐は覚悟を決め、自然とレンギョウの後ろに座るように体が動いた。