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描くように書く。

徒然に綴るブログ、今回は「字」について。

どちらかといえば、僕は字が下手だ。字が汚い。悪筆。個性的。味がある。表現は様々あれども、つまりそういうこと。昔から今も変わらず、「上手」と「下手」に分けられるとしたら、後者であることは認めざるを得ない。

子供の頃から比べると、大人になってからは劇的に字を書く機会は減った。ノートにまとめることもなくなったし、レポートを提出することもなくなった。それ以上に、年を重ねるごとに、世の中は「手書き」よりも「パソコン」がどんどん主流になっていたからかもしれない。字が下手な僕からするとありがたい傾向ではある。だけど少なからず、必ず訪れる。役場などに提出する書類の記入や、芳名帳への記帳、決済時のサインなどなど。そのたびに、つくづく思う。「もっと字が上手ければよかった」と。

先日、巡り巡って、芳名帳への転記を任される機会があった。字が下手との自覚があるので、辞退したいところではあったが、まだまだ年功序列が根深い現代社会においては、年下にそういう役割が回ってくるケースは多い。そこで、分かってはいたものの、自分にほとほとがっかりした。全然上手に書けない。書き慣れない字ならなおさらだ。「読めればいいんだよ」と諸先輩からの励ましはありがたいが、それにしてもかっこ悪い。書いてある字を見ながら書き写すので誤字ということはないが、書き順も怪しいし、バランスが悪い。見られている緊張感も相まって、変にトメ・ハネ・ハライを意識したりして、余計におかしな感じになってしまい、散々な気持ちになった。前回の話に通ずる部分もあるけど、字がきれいな人をうらやましく、つくづく尊敬してしまった。

この自分の悪筆を、学生時代は特に気にすることもなく過ごした。「女子はみんな字が上手い、男子は下手でいい。」のような偏見をずっと持っていたし、ノートだって自分しか見ないし、自分で読めればいい。提出物は少しは気にする程度だ。社会人になる頃には、パソコンが当たり前のツールになっていたので、自分の悪筆ぶりをお披露目するそもそもの機会は減っていたけれど、自分並みやそれ以上の悪筆家のおじさま達がたくさんいてくれたので埋もれていることができた。

少し前に「字が下手な自分からの脱却」を目指し、本を読んだことがある。「読むだけで字が上手くなる方法」みたいなやつ。これはなかなか面白かった。結局は、その字のポイントを意識して書けばいい、というようのことだった。まっすぐの線はまっすぐ、留めは留め、はねははね、はらうところはきちんとはらう。丁寧に、ゆっくりと書けば、それなりの効果は感じられた。

ただ、問題なのは、丁寧に、ゆっくりと、ができないところにあった。昔から、特に最近は、字を書いていると、だんだんイライラしてくる。人生で一番書く機会が多いからかもしれないが、「自分の名前」が最も顕著だ。「赤」は一文字目だからいくらかマシだけど、最初の「土」の上下の2本の角度や間隔がさっそくおかしくなる場合もある。次の「間」がなかなかややこしいので、最近は「もんがまえ」を簡略して書くことがほとんど。それでなんとか乗り越える。だけどその後の「名前」がまた手がかかる。画数は一般的に見たら多めなのが運の尽きか、「泰」の下が「水」なのか「水」ではないのかを昔は気にしたことはあったが、もうこの時点でストレスがたまってきているので、もはやどちらでもよくなっている。そして最後の「樹」だ。最初の「木へん」はいいとしても、真ん中の部位は申し訳ないのだけど、へにょへにょな一筋で済ましてしまうことが多々ある。「あーこりゃまずいな」とここで気づき、最後の「寸」だけはどうにか立て直して書く。そして「またやってしまった…」と落ち込んでいる。

字が下手な理由のひとつとして、「思考のスピードが速すぎて、字を書くスピードに追い付かないかららしい」というのを、テレビ番組かなにかでその昔知った。その感覚は、自分の感覚にとても似ていて、腑に落ちた記憶がある。そして「そっかー俺は思考のスピードが速すぎるのかーこりゃまいったなー」くらいの、ちょっと鼻にかけるくらいの気持ちでいた。正直、ここ最近までずっと。
ところが!芳名帳の件があってから、やはり字がきれいな方が…と思い直し、何か簡単で劇的な解決方法がないものかと、ネット検索してみたところ、「字が下手な理由」として信じてやまなかった「思考のスピードが速すぎるから」という要因が、全然出てこない!なくはないけど、それよりも、「せっかち」や「めんどうくさがり」、「字を書く練習が足りていない」というものがほとんどで、さらには「発達障害の可能性」という、ちょっと驚く検索結果も出てきた。四十前にして今更「発達障害」と言われても…とりあえずはもうここまできてしまったので、これ以上の発達を望むこともないし、そのあたりをこれ以上深堀するのはやめようと、原因はうやむやなままにそっとパソコンを閉じた…。

字を書くのは下手だけど、実際のところ、書くのが好きなケースもある。たとえば、「はがきのあて名」。ここ最近はめっきり減ったけど、年賀状を十数枚だけは出し続けていて、大手印刷屋さんに写真入りでデザイン面を印刷してもらい、あて名だけ自分で書く、というのが恒例になっている。年末に、こたつで、ちょっと太めのサインペンで、一枚一枚に届け先の住所と名前、そして、デザイン面の余白に何か一言。これは妙に楽しくて、続けている。この字も、おそらく決して上手ではないかもしれないが、字を書くというよりも、そういう絵を描いているような気になっているのかもしれない。
「手帳」も同様。数年前から「ほぼ日手帳」を使い始めた。日記でもない、予定帳でもない、何でもないことを、書いたり、書かなかったり。落書きを描いたり、気になったことやものについて書いたりもしているので、それこそ字を“書く”ではなく字を”描く”ような感じ。これもまた楽しい。

そういえば、絵を描くのは昔から好きだ。小学生の頃は漫画家になりたいとも思っていたし、「ドラゴンボール」と「ダイの大冒険」が混ざったような、今思えば超絶的に稚拙でパクリだらけの漫画を自作と称して描いていた。「書く」のは苦手だけど「描く」のは今も楽しくて好きだ。
さらに言えば、「字を書く」のではなく、「文章を書く」のも好きだ。この通り、ブログサービスに定期的に何かしらを綴っているし、歌詞を書いたり、読書感想文をサイトにまとめたりもしている。ただし、僕の場合は正確に言うと「書く」ではなく、「打つ」の方だけど。パソコンで文章を「打つ」のは「書く」とくらべて段違いに快適だ。
歌詞も、手書きのメモをワードに書き起こしたり、メモもなく直接打ち込み始めることもある。それをいったんプリントアウトして、ギターを弾いてメロディを模索し、歌詞や構成を手書きで直し、それをまたパソコンで打ち直し、推敲を繰り返す。曲作りはそういう形式が一番主流になったので、手書きの歌詞ノートを使うことはほとんどなくなった。手書きのノートの方が、書き直した経過がわかるからいいとは思いつつも、「字を書く」ストレスから解放された方が性にあっていたらしい。それでも、ごくたまに、一曲まるごと歌詞を手書きすることもあるから、歌詞ノートは健在。たまに思い出したようにめくると、数年前の作りかけの曲が出てきたりなんかして面白いので、それも捨てずにいる。

いつも以上に、とりとめもなく書き連ねてしまったけど、結局は「字が下手だけど、書いたり描いたりすることには興味がある」というようなことがぼんやりわかってきた。「字」を「字」ではなく、「字」を「絵」や「ロゴデザイン」、「歌詞のフレーズ」のような感じでとらえて楽しんで書けば、ストレスフリーに書けるようになるのかもしれない。思い起こせば、大学生の頃、ギターを始めて間もない赤間青年は、歌いたいいろんな曲のコード譜を手書きで書いて、それを見ながら弾いていた。当時はネットで検索したり、コピーしたり、があまり容易ではなかったこともあるが、それほど時間を持て余し、暇だったのだろう、そういう手書きのコード譜が今でもたくさん手元に残っている。今思うとよくやったもんだと思う。(結局、どうせ読めない詳細な五線譜は必要としておらず、歌詞とコードだけわかればよかったということもある。)

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ここまで書いてみて、いや“打って”みても、まだ解決はしていない。意を決して、もう一度検索をし、原因を探るよりも、別な角度からの解決方法を模索してみた。すると「いいペンで書く」というのが目に留まった。確かに、年賀状のあて名を書く太めのサインペンは、滑らかな書き心地がやみつきになる。書き心地のいいペンで書けば、ストレスを感じてしまうことなく、名前も最後の一画まで穏やかに書ききれるかもしれない。ただ、そうはいっても、机に置いておくならまだしも、常に持ち歩くのはなかなかのハードルだ。
最近の僕が名前を書く機会で一番多いのは、「JAでの資材購入時のサイン」だ。梨の発送用の段ボールやガムテープなど、こまごましたものを買うときも、現金払いではなく、まとめて口座引き落としが楽なので、毎回の清算時にサインをしている。その時の、JAさんのボールペンの書き心地にケチをつけて、自分の胸ポケットから書き心地最高のボールペンをわざわざ出してサインする、というのは、これはこれでまたいろいろ問題がある。「赤間さんとこの息子さん、いつも自分のボールペンをわざわざ持ってきてサインしているよ…(笑)」と、狭い町の格好のネタになってしまうんだろうな…。役場だろうが銀行だろうが同じこと。さすがに「高級・高性能マイボールペン」を持参するのは自粛して、大人しく、備え付けのペンで書くことにしよう。どんなに忙しくても、心を落ち着けて、早すぎる僕の思考のスピードを落として、丁寧に。持ち歩かないまでも、書き味のいいペンは使ってみる意義はありそうなので、良いの知っている方は是非ご紹介を…。

いつの日か「書く」のすべてが「打つ」に置き換わってしまうことがあるかもしれないが、そこにはきっと「書く」ということの風情を、大事にする動きも残っていると思うし、残っていてほしいと思う。最近たまにある、タブレットに専用ペンで自筆した時の、想像以上に下手くそな自分の字さえも、いつか愛おしく思えるのかもしれない。今のうちは、もう少し穏やかに、自分の手で紙にしっかり書いておこうと思う。

とりあえず今回はこの辺で。またそのうちに。

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