#109 サンタクルス
ポルトガルの首都リスボンから電車で1時間余りの場所にその小さな町はある。
簡易な駅舎の外へ出て空を見上げると青空が広がっていた。
午後からは曇りになるという予報だったがこういうハズレ方は嬉しいものだ。
駅のすぐ側にあるバス停に向かう。
私の到着を待っていたのか?と言わんばかりのタイミングでバスはすぐに発車した。
何の変哲も無いバス停で降りると既に海の香りが辺りを覆っている。
先ずは海辺へ行ってみる。
この小さな町が世界の全てだと思っているに違いない野良猫が民家の塀の上にうずくまり、用心深そうにこちらを伺っている。
見慣れない奴だとでも思っているのだろう。
狭い路地を抜けると急に足が重くなる。
砂浜が広がっているのだ。
少し傾いた陽の光が大西洋の海に反射してキラキラ輝く。
海風が堪らなく心地良い。
いつか凹んだ時の為に取っておきたいぐらいだ。
掌を目に翳し、眩しさを遮りながら沖を見やると小さな船がいくつも浮かんでいるのに気が付く。
漁船だ。
ここは町とも呼べないような鄙びた漁村なのだ。
少し離れたところで子供達がサッカーに興じている。
しかし私の存在に気付くと、皆んな物珍しそうにこちらをチラチラ見ている。
何者かは分からないが、どうやら外国人であることは理解しているのだろう。
ほらほらパスがくるぞ。
キーパー君、今シュートを打たれたら簡単にゴールを許してしまうじゃないか。
尤もボールを持った選手も謎の外国人に気を取られているか。
落ちていた少し大きめの貝殻を拾い、海に向かって投げ入れる。
想像した地点よりずっと手前にそれは力無く落ちてゆく。
貝が遠くへ飛び難い形をしているのか、私の遠くへ飛ばす力がないのか。
それでは。
ここへ来た最大の目的である場所へ向かうことにしよう。
来た道を戻りながら暫く探すが見つからない。
先ほどこちらを訝しげに見ていた猫がまだ同じところにいるが、しかし今は塀の上で器用に体を丸めて昼寝をしている。
海の香り。白い壁。
道路に写る私の影が少し長くなってきた気がする。
ふと、ベレー帽を被り杖をついた老人が通りの反対側を歩いているのに気付く。
車など滅多に通らないその通りの左右を見てから渡り、(安全確認てのは身に染み付いているんだな)老人に近付いていく。
私のポルトガル語がどこまで通じるのか不安だったが、(いや実は不安ではない。それは楽しいことだからだ)目当ての店の所在を聞いてみる。
(なんだ、ここだったのか)
一度通り過ぎていたことに気付き、思わず苦笑してしまう。
”インペリアル”と名付けられたその店は思っていたより小さく、こじんまりとしていて 正にこの町の社交場となっているのだろう、見るとまだ昼間だというのに酒を飲み、小さく鼻歌を歌いながらステップを踏んでいる淑女もいる。
カウンターに陣取っている数人の先客がジロリとこちらを一瞥する。
「Olá (こんにちは)」
挨拶をしながら私もカウンターに行き、先客達から少し離れたところに座りビールを頼む。
「どこから来たんだ?」
興味深げに見ていた先客の一人にそう聞かれたので日本であることを伝えると、彼らの表情が活き活きし始め、気のせいか店の空気が変わったようにも感じられる。
カウンターに陣取る客が店の主人に何かを伝えた後、私に向き直りこう言ったのだ。
「プロフェソール・ダンを知っているか?俺たちはみんなプロフェソールが大好きだったんだ」
ここサンタクルスは作家 檀一雄が1年半暮らした漁村であり、とりわけ大西洋へ沈む夕陽の美しさをことの他愛したようだ。
"インペリアル"は彼が良く通った居酒屋で、エッセイの中にもこの店は登場し、店主であるジョアキンも私が訪れた当時、まだ健在であった。
店の近くには彼が住んだ家、そしてその名を冠した通り”Rua Prof. Kazuo Dan”もある。
「タ・コ・・・」(日本語である。檀一雄に教わったのだろう)という声に振り向くとタコの煮物がフォークに刺されて私に差し出されている。
ジョアキンが「食べてみて、プロフェソールが大好きだったんだんだ」と言う。
タコは柔らかく、とても美味しい。
これを檀一雄も食べていたのかとの想いと、一瞬にして時を遡ったような感覚に襲われる。
当初、あからさまな視線を送ってきた人々も、檀一雄とインペリアルで過ごした当時のことや、思い出、日本のテレビ局が取材に来たことなどを口々に語り始める。
実はポルトガル語で話しかけて来るのであまりよくは分からないのだが、そんなことを伝えようとしていることが何故かこちらの心に届いてしまう。
恐らくそれは気のせいではない。
人間の伝達システムの不思議さを感じずにはいられない。
2時間ほどいただろうか、堪らなく濃密でいて、しかしサラッとした心地好い空間に居れたことに感謝をし、店を出てサンタクルスを後にする。
リスボンに戻った時には街に灯りが少しずつ点き始めていた。