『ガザ日記』を読んで、それでもまだ私たちは無関心を装うことができるか
イスラエルのガザ侵攻が始まったのは2023年10月7日。もうじき1年にもなろうとしています。ガザで何が起きているのか、ニュースになることはあまりありません。私たちはガザの現実を知らされているとはいえないし、知らないでおこうと思えば知らずに済みます。
1,『ガザ日記』に記されたガザの「日常」(私たちにとっての非日常、しかし異世界ではない)
これは『ガザ日記~ジェノサイドの記録』という本からの引用です。作家のアーティフ・アブー・サイフさんは、ガザ侵攻が始まった10月7日からガザを脱出する12月30日まで毎日世界中に現状を発信し続け、いま1冊の本になって世界中で出版されています。
この本を読むと、いまガザの人々の置かれている状況が、いかに理不尽なものか、いかに絶望に満ちたものであるのか、思い知らされます。老衰であれ病死であれ事故死であれ、私たちは近しい人が亡くなったとき、その人の姿と向き合って葬式を行い、埋葬し、そういう一つひとつの積み重ねを通じて死を受け入れることができるようになります。しかしガザではそのような当然のことでさえ不可能です。
私たちの子どもたちは、当たり前のことですが、自分が死んだ後のことなど考えません。今日の晩御飯はなんだろう、明日は何をして遊ぼうか。そんな楽しいことを考えます。それが子どもの権利です。
しかしガザの子どもたちは、自分のバラバラになった死体を見つけてもらうために、手足に名前を書くというのです。そして親たちは瓦礫の下から運よく(運よく⁈)我が子の死体を見付けたことができたとしても、ちゃんと埋葬することさえできない。そんな地獄があるでしょうか。
ガザに暮らしている誰もが、身内に少なからず死者を抱えています。
フダーとハーティムとは著者の義姉とその配偶者です。自宅を爆撃され、家族のほとんどが亡くなった中、姪のウィザームは命をつなぎとめました。その代償として両足と右手を失って。ウィザームは美術大学を卒業したばかりのアーティストです。
家族を失い、創作活動のための手足も失い、その絶望は……。
イスラエル軍は学校も攻撃すれば、病院も攻撃します。絶望を与えるために。口実は「ハマスが…」かもしれませんが、そんなわけがないことは誰だって知っています。『ガザ日記』に記された日常には、テロリストの姿など微塵もありません。あるのはイスラエル軍の暴力、暴力、暴力、ただそれだけです。
このような異常事態を、あなたは、わたしも、想像できたでしょうか。もっとも安全でなければならない場所が、もっとも危険で命の保証が一切されないという、地獄絵図。世界中のどこであっても、そんなことはあってはならない。あってはならないことが、いま、起こっているのです。
2,イスラエル=パレスチナ問題の歴史認識(人権問題とは歴史認識問題でもある)
パレスチナの地獄絵図は2023年10月7日に突然始まったわけではありません。著者の祖父母の時代から始まっていました。『ガザ日記』の素晴らしい点は、いまの苦しみと生、過去の苦しみと生が、オーバーラップされて描かれていることです。歴史がきちんと描かれているということです。
イスラエル国家の起源がナチスドイツによるユダヤ人虐殺であるあるかのように、そして国家を持たない民族の悲劇のように語られることがありますが、そんなものは大嘘です。人々を追い出し、人々の田畑を奪い、まるで未開の地に建国したかのようにふるまう。それは民族の悲願などではなく、植民地主義そのものです。帝国主義内にあったユダヤ人問題という差別・矛盾を自国内の問題として解決することを放棄し、イスラエル建国という「夢」に流し込んだ、ただの欺瞞。それも最も醜悪な形での。
イスラエル建国とは、帝国主義諸国が自国内で解決しなければならない差別問題を放棄した結果に過ぎません。何一つ正義などありません。
それでもアメリカはイスラエルの「善良」な庇護者として振る舞うつもりなのでしょうか。
イスラエルの行動に反対することは反ユダヤ主義ではありません。むしろイスラエルがいまやっていることに反対することこそ、ユダヤ人の苦難の歴史に寄り添うことでもあると信じています。
イスラエルが「ユダヤ人国家」である限り、問題は解決しません。私は今回の事態が起こるまで、オスロ合意がひとつの解決策だと思っていました。しかしそれはまやかしだったようです。歴史に、そして今の現実に立脚するならば。そもそも初めから間違っていたのです。
私たちの歴史では台湾・朝鮮の植民地支配や満州国建国が最初から間違っていたのと同様、イスラエル建国がそもそも間違っていたのです。
3,ドローンとF16(私たちの日常はガザの「日常」と無縁ではない)
ガザの夜に静穏はありません。空爆がひどくなるのはきまって深夜で、意図的に人々の眠りを妨げています。ブーンというドローンの羽音は四六時中なり続けて人々を監視し、そしてF16戦闘機が音速を超えてパレスチナの人々を殺しにやってきます。
この戦争に関して言えば、誤爆はありません。そこに生きているパレスチナ人がいることを確実に把握し、死と絶望を与えることを目的にイスラエル軍は行動しています。「戦争」という言葉に違和感を覚えるほどです。
狙われているのは水や食料にさえ事欠くガザ市民で、イスラエル軍は最新鋭の戦闘機や戦車で武装されています。これは一方的な虐殺です。
衛生状態が最悪なガザでポリオが蔓延しはじめ、子どもたちにポリオワクチンを接種するため休戦がもたらされました。しかしワクチン接種が行われている最中にもドローンの羽音は鳴り続け、子どもたちが命をつなぐワクチン接種を受けている隣の街で、あるいはワクチン接種が終了する午後2時を過ぎたとたんに、子どもたちが殺されていきました。
生きるためにワクチン接種を行っているのに、そのそばから殺される。絶望に屈することなくワクチン接種を行い治療行為を行っている医師の活動には敬意を覚えますが、それだけにイスラエル軍の行動に怒りを禁じえません。やはり絶望を与えるために人殺しをしているとしか思えません。
もう1年が経とうというのに、殺戮に終わりが見えません。イスラエルの暴虐を止めようという有力な力が、どこにも存在しないからです。
『ガザ日記』の著者はガザを脱出することができました。それは彼がヨルダン川西岸地区・パレスチナ自治政府の文化大臣だったからです。ウィザームはエジプトにいますが、それは彼女が両足と右手を失い、治療が必要だったからです。地獄のガザから逃れる代償が両足と右手だなんて、あっていいわけがありません。
そしてほどんどの市民が、高い壁のうちに押し込められ、ライオンのような戦車、ハゲタカのようなF16から逃れる手段をもちあわせていません。
そもそも故郷を捨てなければならないということが理不尽なのですが、逃げることも叶わないということもまた理不尽です。闘うから殺される、ではなく、殺されたくなければ闘うしかない。それがガザの現実です。そして闘うというハードルが、いまの日本社会よりもずっとずっと高いというのに、他に選択肢もないのです。そんな残酷な世界が現実にあるのです。
そしてハードルがずっとずっと低い私たちは、闘おうとしない。無関心の暴力を決め込んでいます。
著者も自分が生きてガザから脱出し、なぜ自分だけが生き延びることができたのか、自問自答しています。
イスラエルは意図的に国境を封鎖し、パレスチナ人を逃れられないようにして、パレスチナ人を殺す「権利」を享受し遂行しています。
この悪夢を終わらせる唯一の方法は、私たちがイスラエルの暴虐を止める有力な力へとなることです。私たちが無関心を装うのではなく、反対の声をあげることです。
私たちにも子どもがいて、親や兄弟がいて、親しい友人たちがいます。そういう人が瓦礫の下に埋もれ、放置されるがままになるしかないのだとしたら、どんな気持ちになるでしょう。そんな人たちから「誰も反対しない」「見捨てられた」と言われて、それでも無関心でいられるような私たちであってはなりません。
ましてやアメリカだけでなく、日本もイスラエルの支援国です。日本はイスラエルと協定を結び軍事的結びつきを強めています。
イスラエル製のドローンを自衛隊が活用していますが、その輸入元は川崎重工業です。神戸港に本社を構え、私たちにとってはバイクで有名ですが、実はドッグで自衛隊の潜水艦などを作っている、あの川崎重工業です。直近では裏金で海上自衛隊員に金品供与を行っていたという事実が暴露された、あの川崎重工業です。神戸の経済を支えている大企業がイスラエルの軍事産業と深い結びつきがあるというのに、私たちの日常がガザの住民の「日常」と無縁でいられるでしょうか。
ともに声をあげましょう。
【2024年9月25日 第188回神戸水曜デモアピールのための予備原稿】