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戦後80年を集団で記憶する意味、そしてそれを築いていくためには
1.阪神淡路大震災の記憶を集団で共有するということ
1月17日は阪神淡路大震災30年の節目の年でした。あの時のことを思い出した人も多いと思います。震災を知らない世代が多くなってきましたが、2011年3月11日には東日本大震災があり、昨年1月1日には能登半島地震があり、そういった災害が繰り返されるたびに私たちの記憶もアップデートされてきたような気がします。
今年は30年という節目ということもあって、テレビではたくさん番組が制作されましたし、記念行事に参加された方も多いと思います。
そうやって私たちは、集団として震災の記憶を共有します。個人の記憶はもちろん他に代えることのできない大切なものなのですが、集団として、あるいは社会として記憶を作り共有していくということは、次の震災に備え救うことのできる命を一人でも多く救うという意味でとても大切です。
そして何よりも、震災によって傷ついた心を少しでも軽くするという意味で、記憶の共有とはとても大切な行為なのです。
2.戦後80年 加害者たちの集団の記憶
今年2025年は戦後80年という節目の年です。そして日韓条約から60年、日本軍「慰安婦」問題の日韓合意から10年の年になります。右翼の人たちは「2025年は昭和100年だ」としきりに喧伝しています。
時間は連続の延長であり、節目というのはそれ自体大して意味はないでしょうけれども、そこに意味を見出したい人にとってはやはり重要です。80年、50年、10年、100年、それぞれについて全て語りたいところなのですが、今日は戦後80年の意味を訴えたいと思います。他の節目についても、今後訴えていきたいと思います。
集団の記憶というのは、体験者がいなくなれば薄れていくというのは当然のことです。戦争の記憶も戦争体験者がいなくなるにつれ、リアリティがすっかり薄れてきた感があります。
戦争が終わった直後、戦場で心に傷を負った兵士たちは、自らの心情をなかなか吐露できずにいました。あるいは傷ついていると気がついていない人も多かったのかもしれません。
なぜ吐露できなかったのか。それは日本の戦争とは侵略戦争だったからです。中国人の首を切り落としたとか、フィリピン人をレイプしたとか、インドネシアで人狩りをやったとか、そんなことは自分の家族に話しすることはできません。家庭においてはいい父、いい夫を演じなくてはなりません。あるいは絶対的な家父長として、威厳を持たなければなりません。「俺は中国人の女をレイプした」「赤ん坊を銃剣で刺し殺した」そんな話を家の中できるわけがありません。罪を共有できる男どもの内輪、つまりは戦友会の中で、自慢話のようにヒソヒソと語られるだけでした。
自分たちの名誉を守るために、正当化の論理が働き、反省や自己批判は置き去りにされました。死が次々と訪れる狂気の状況も生き延びた者たちだけの「集団の記憶」として乗り越え、人によっては心を病んで、人が変わったように酔っては家族に暴力をふるいながら、戦争での加害当事者は亡くなっていきました。
もちろん勇気を奮って戦争の加害を告白した兵士たちもいましたが、それはごく一部にすぎません。
残念なことに、反省や自己批判は、被害者が名乗り出ることで問われることになったのです。
アジア太平洋戦争が終わってアジアは冷戦を迎え、日本によって植民地支配された地域は共産主義か反共軍事独裁かを迫られ、被害者たちは反共立国のために日本に戦争植民地責任を問うことができず、また中国に住んでいるような人たちも「賠償請求権の放棄」のもとに声を封じられてきました。
アジアの戦争被害者たちは、冷戦構造が終えんを迎えるにあたってやっと声を上げられるようになったのです。
自分の親兄弟を殺されたり、レイプされたり、あるいは炭鉱やダム工事現場に連れていかれて強制労働に従事させられる、そのような人道の罪に対して国家責任を問うなと言われたって、当の被害者が黙っていられるわけがないのです。賠償請求権の放棄などという国家同士の取り決めによって被害者の口を封じることなどできないのです。傷ついた人たちをそのような国の身勝手な理屈で封じることができるのであれば、それは国家の暴力にほかなりません。
3.戦後50年目に到達した加害の立場としての集団の記憶
日本軍「慰安婦」被害者ではじめてカミングアウトし日本政府に謝罪と賠償を訴えたのは、金学順さんです。1991年8月14日のことでした。そして日本軍「慰安婦」問題だけでなく、強制連行や靖国合祀、在韓被爆者問題など、日本の戦争責任を問うという大きなうねりとなって、日本政府を揺るがしました。
戦争から50年、半世紀の節目となる1995年は、日本政府が過去の戦争とどう向き合うのを問われた時代でした。その頃は右翼左翼といった思想にかかわらず、戦争体験者もまだ生きていました。アジア各地から日本の戦争責任を問われ、日本の平和運動の側から「日本のこれまでの反戦平和運動は被害者目線の運動であり、加害者の視点が欠けていた」と良心的な運動圏内からは自己批判もなされました。
もちろん日本社会におけるそこに至るまでの長い道のりもありました。歴史教科書では検定意見によって侵略を進出と書きかえられて国内外から抗議の声が起こり、家永裁判によって歴史を誰がどう記述するかということも問われました。良心的な日本市民の取り組みが、被害当事者からの訴えと結びついたのです。
日本軍「慰安婦」問題についていえば、1993年には河野談話があり、それを受けるような形で1995年7月にはアジア女性基金が始まり、8月には村山談話が発表されました。アジア女性基金は「国民」の募金を原資にすることにより国家責任を回避した、被害者の要求には全く沿わないものでしたし、私たちも当時それに反対しました。そして村山談話についてもアジア女性基金への参加を呼び掛ける内容だったために、私たちは決していいようには思っていません。
しかし村山談話とは、戦後50年当時の日本社会の「集団の記憶」の反映だったともいえると、私は思います。
我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。
我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。
この文言の中にも不満はあります。日本人特有の曖昧さを認めざるを得ません。けれども日本政府が侵略と植民地支配の責任について明確に認めたことは、これが初めてでした。それまで「戦争を二度と繰り返してはならない」という言葉は、日本人が被害者になるという文脈での言葉であり、冷戦終結後の戦後50年もたった1995年にやっと、私たちの「集団の記憶」となったのです。
4.バックラッシュ(戦後60年、70年)
しかしそのような良心的な日本社会は、長くは続きませんでした。バックラッシュと呼ばれる季節が到来します。
1997年には「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、日本軍「慰安婦」問題への攻撃が始まりました。
2001年には小泉政権がスタートします。小泉政権は労働分野での規制緩和を進め、いまある正規・非正規雇用といった差別待遇、ワーキングプアの原点となる、新自由主義を本格的に日本社会に持ち込んだ政権でした。そして靖国公式訪問を行うなど、右翼的な方針を実現した政権でもありました。
戦後60年の節目となる2005年に小泉談話が発出されました。
先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています。
また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。
小泉談話は、亡くなった日本兵を讃えつつ、植民地支配と侵略戦争を認めました。「三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り」という文言と「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という文言は矛盾します。
あの戦争を侵略と植民地支配のためというのであれば、日本兵たちは祖国と家族のために死んだわけではありません。侵略と植民地支配のために死んだのです。亡くなった日本兵に対して必要なのは国家としての謝罪と反省であって、靖国神社に神として祀り讃えることではありません。
私たちにはつい昨日のように感じてしまいますが、2015年には安倍談話が発出されました。アジア諸国からの批判を避けながらナショナリズムをあおりたいという意図に貫かれた談話でした。
安倍談話では、日本は「繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」し、その気持ちの行動としてインドネシア、フィリピンから韓国、中国の平和と繁栄のために努力したとしています。反省の証としてアジアの発展のために寄与したのだということなのですが、これはアメリカの意向を受けてアジアの反共陣営強化のために軍事独裁政権等を支援し、日本の商社を儲けさせた賠償ビジネスのことを指しています。
そのうえでこう述べるのです。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
中国人や元捕虜の寛容を忘れてはならない(なぜここに韓国・朝鮮人の記載がないのか、よっぽど言いたくなかったのだろう)、これは加害国の言葉としてアリなのでしょうか。被害者の寛容さに感謝する、これが安倍談話の根幹です。しかも安倍談話発出当時、多くの日本軍「慰安婦」被害者が日本政府を告発し続けていたというのに。(だから韓国人がないのか。)
安倍談話で日本軍「慰安婦」問題について触れたのは、次の一文だけです。
戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
これは日本軍「慰安婦」被害者のことを指しているのでしょうか? 全く理解できません。被害者をバカにしたような一文です。
そして安倍談話の4月後、2025年12月28日に、安倍政権と朴槿恵政権とによる日本軍「慰安婦」問題の「日韓合意」が発表されたのです。これによって日本軍「慰安婦」問題は「最終的かつ不可逆的に解決」されたとしました。もちろん被害者たちは、私たちが知らないところで勝手に解決するなと声を上げました。その声は朴槿恵政権が弾劾される一因となりました。
合意の片方の当事者がロウソク革命によって打ち倒されたというのに、日本政府は今でも事あるごとに「日韓合意違反」を振りかざします。異常な事態としか言いようがありません。
5.戦後80年の「集団の記憶」をどう作るべきか
今日は「集団の記憶」にこだわっていますから、あえていいますが、安倍談話の記憶もまた、「集団の記憶」であった事には間違いありません。つまり記憶は、いくらでも改ざんされ得るということです。
2015年当時は在特会が隆盛のころで、街はヘイトスピーチにあふれていました。日本軍「慰安婦」問題でいえば、2014年に朝日新聞の「誤報事件」があり、そんなものは日本軍「慰安婦」問題の事実を毀損するものでも何でもないのに、「日本軍「慰安婦」問題は嘘」というまったく歴史の真実に基づかない流言飛語が拡散され、あまつさえも閣議決定によって日本政府の公式見解から半ば葬り去られています。
けれども2025年のいま、私たちは知っています。被害者の声は葬られてはならないということを。
中居正広の性暴力事件はフジサンケイグループの存続を問われるまでに大きくなっています。一昔前であればもみ消したであろうものを、もみ消せない今があります。
岸和田市長の永井耕平。継続的な性暴力をやっていたというのに、「恋愛関係であった」とうそぶいています。和解調書にはこう書かれています。
「原告と性的関係を持つことは、よくよく自制すべきであったとの非難を免れることはできない」と。
その和解を受け入れたのは永井市長です。被害女性は悲痛な声を上げています。
「私は本心では和解などしたくはありませんでした。この裁判でも判決をいただく選択肢もありましたが、私はもう心身ともにボロボロです」
「もうこれ以上被告と関わりたくありませんし、裁判を早く終わらたいという思いが強く湧くようになり、諦めたというのが実情です」
少し前であるならば、中居正広の事件も永井市長の事件も「和解したのだから、それを問題にするのはおかしい」という声が主流を占めていたかもしれません。けれども今は違います。被害女性に寄り添うことが、どれだけ被害女性を救うことになるのか、私たちは知っています。
被害女性によりそうこと。これが私たちの「集団の記憶」になりつつあります。
阪神淡路大震災のときも、避難所で性暴力事件があったことが、今では明らかになっています。けれども震災当時は誰もそんなことを問題にしませんでした。「誰もがしんどい思いをしているのだから、そんなことをガタガタ言うな」「被災地のイメージダウンになる」……そういった加害者側に与する圧力が、被害者の声を封じ込めていました。
けれども2025年のいま、その言説は通用しないのです。女性たちが被害に遭うことに対して、女性たちは、そして男性だって、認めない世の中になってきつつあるのです、
戦後80年談話が発出されるのか、現時点ではわかりません。そんなものには何ら期待できないと思っています。
けれども私たちは、10年20年前の私たちではないのです。性暴力に対して「許さない」という機運があります。
もちろん、日本軍「慰安婦」問題が性暴力であったということを全体化できるかどうかという危惧があります。それは戦争中であったということに加えて、「性売買は性暴力ではない」という感覚がいまだ日本社会の多くを占めているからです。
私たちははっきり主張したい。金銭を媒介する性売買は性暴力であると。性を売る女性と性を買う男性は、対等な関係ではありません。女性たちはそれに合意しているのではなく、合意させられているのです。
中居正広も永井耕平も、それが合意だったと、きっと未だに思っているでしょう。けれどもそれは立場を利用した暴力です。女性たちに「仕方がない」と思わせることもまた暴力です。「金のため」「生活のため」と思わせることもまた暴力です。性暴力です。
性暴力を許さない!
性売買は性暴力だ!
そのスローガンを糧に、私たちは戦後80年の「集団の記憶」を紡いでいきたいと決意しています。
共に頑張りましょう。
【2025年1月22日 第192回神戸水曜デモ アピール原稿】