アジアと日本の歴史④ タイ~変わらぬ友情で結ばれた王国
タイは王国としての長い歴史を有しています。現在のチャクリ朝は1782 年に始まっています。安土桃山時代から江戸初期にかけては、朱印船がタイ(当時はシャム)各地で貿易を行いました。また、山田長政が活躍したことは有名です。開国後も我が国とタイは一貫して友好関係にありました。明治維新の時期は、タイにとってもラーマ4世、5世(チュラロンコーン大王)の近代化改革の時代と重なっているのです。
1930年代に入って、欧米が保護貿易主義をとる中で我が国が孤立していったときでさえ、タイは親日的でした。昭和7(1932)年、満州事変と満州国建国に関して、国際連盟総会でリットン報告書に基づく対日勧告案が採択されたとき、各国が賛成する中、タイ代表だけは我が国に好意を示して投票を棄権したのでした。
昭和15年6月に日泰友好親善条約を結んでいたピブーン・ソンクラーム首相は、日本軍が北部仏印に進駐するのを見ると、昭和16年には仏印領となっていたタイの旧領土回復に乗り出しました。翌年、大東亜戦争が勃発すると、日本軍はタイにも進駐し、兵站基地として協力させようと考えていました。これに対して戦局を日本優位と見たピブーンは、内閣を改造して親日派で固め、英米に宣戦布告して、三国同盟への加入まで申し入れてきたのです。タイの動きに日本政府は困惑させられました。参戦すれば連合国の攻撃の対象となり、兵站基地の役割が果たせなくなることを懸念していたのです。
ところで戦時中の日泰関係といえば、「泰緬鉄道」の悲劇が思い出されます。日本軍が捕虜や民間人を「強制連行」して工事現場で働かせたというものですが、当時そこで一労働者として働いていたプラソン・ソーンシリ元外相は、「タイ人労働者への処遇は問題なかった。私は破格の給料をもらって働いた。マレー人の問題は、仕事があると聞いて失業者が建設現場に押し掛けてきたから起こった。中には飢えて死んだ人もいたが、ほとんどは病気で死んだ。過酷な労働のためだけではない、と歴史における誤解をただしています。これは筆者が本人の口から直接聞いた秘話です。
さて戦局の悪化と共に、タイ政府は不安になりました。日本敗戦後の国益を守る為、次第に我が国との距離を置き始めました。昭和18年11 月に東京で開催された大東亜会議には、ピブーン首相は仮病を使って出席しませんでした。そして代理で参列したワンワイタヤコーン殿下の演説原稿は、自由タイ運動(反日親英米派)の駐日外交官タナット・コーマン氏(後に外相。ASEAN創設に尽力)によって、タイの責任を回避するような文章に書き改められていたのでした。
しかしそのタナット氏は筆者の取材に対し、「私は(日本軍の)憲兵隊にひどい目にあった人間だが、アジアの将来ということを考え、広い目で見れば、日本が戦争で果たした役割は評価されるべきだと思う」と語っています。ワンワイタヤコーン殿下も、国連議長として日本の国連加盟に尽力されました。戦争という複雑な時代を経ても変わることはなかったこの関係こそ、真の友情と呼べるものでしょう。
連載第36回/平成10年12月22日掲載