教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第10章 羽地朝秀と蔡温③
3.羽地朝秀の改革
【解説】
冒頭部分はすでに紹介したが、読者の便宜のために再掲しておく。ここでは、羽地朝秀の改革の中身から示すことにする。
タイトルは「羽地の改革」だが、後半はその後に起こった問題の指摘になっており、読者の便宜のために分割することにした。後半は次項に譲る。
せっかくの改革者の話なのだが、余り具体的ではない。何をどのように改革したのかをもう少し詳しく知りたいところだが、それはまた研究の上で、加筆することにしよう。
【本文】
羽地朝秀(1617~1676)は、琉球の王族の出身です。日本の学問に優れ、1650年には沖縄で初めての歴史書である『中山世鑑(せいかん)』を著しています。尚質王の摂政となり1666年から約10年に渡って様々な政治改革を行いました。以前書いたように、羽地の理想は「節用愛人」の政治でした。
その改革は薩摩から出された15ケ条の命令を実行し、特に農業を重んじ、島津式の質素完結な政治を目ざし、迅速に行動に移しました。無意味な贈答をやめ、冠婚葬祭を質素にする規定を作るなど、経費を節約して財政も立て直し、わずか3年でそれまでの借金もすべて返済しました。
それまで、役人は自分の領地の農民に鶏をを預けて世話をさせてその卵を持って行ったり、野菜や薪を非常に安い価格で強制的に買い取ったりしていましたが、そのような百姓を困らせることを禁じました。また一方で開墾を奨励し、増産を図りました。
一芸一能のない者は役につけないようにして貴族や士族の子弟には日本の学問芸能を勧めました。そのため、日本文化の研究がさかんになり、後の尚敬王時代になってそれが開花しました。
「百姓にいたるまで富貴」になったと羽地は言いましたが、そこまでではないにしろ、人々の生活が向上したのは間違いありません。
しかし、羽地の改革には反対もありました。特に迷信の巣窟になっていた王宮内の女たちが強く反対したようです。
羽地は、国王に対して「女たちは巫女(ゆた)を信ずる風があるから、女の迷信にまよわされぬように」と忠告していました。そして「今少し改めたいことがあるが国中に同志の者がなくまことに残念だ」と嘆いていました。 羽地が「改めたい」と思っていたのは、宮中の女たちの心の奥ふかくしみこんでいる古い迷信とむすびついた伝統的なお祭りのことだと思われます。「しかし自分を知る者が北方に1人2人いる」と、薩摩には自分と同じ考えの人がいると自分を激励した羽地でしたが、これだけは根本的に改めることができませんでした。
羽地は摂政になったその日から改革にとりかかり、わるい習慣はどんどん廃止し、無駄遣いをなくし、そして国民の大多数をなす貧民をいたわりながら、道理にかなった新しい政治の方向をきめました。これは羽地の大きな功績です。
【原文】
二、羽地の改革
島津支配下の二百六十年のあいだに三人の巨人が沖繩歴史の上にかゞやいています。儀間真常・羽地朝秀(向象賢(しょうぞうけん)) 具志頭文(ぶん)若(じゃく)(蔡温)の三人です。儀間は他の二人にまさるとも劣らない偉人ともいうべき人です。この人の功業は第十一章で話します。
羽地と蔡温はともに一かどの学者であり、高い位置をしめた政治家です。二人とも自分のやりとげた仕事と、将来への希望を書きのこしています。羽地の仕置、蔡温の独物語がそれです。羽地は日本趣味の人で蔡温は中国趣味、時代もちがい教養も理想もちがっています。この二人の政治のとく長は前にのべたが今少しくわしく話しましょう。羽地は貴族で学問(日本の)にすぐれ沖繩ではじめての歴史中山世(せい)鑑(かん)をあらわしています(一六五〇)。島津の指名によって尚質王の摂政となり十年のあいだ(一六六六~一六七五)にいろいろの改革をなし、だらけた政治をひきしめて軌道にのせました。改革の要領は島津から出された十五ケ条の指令を実行し、重農主義の理想で島津式の質素かんけつな政治を目ざしていたようです。無意味な贈答をやめ冠婚葬祭を質素にする規定を作り、てきぱきと実行し、むだな費用をはぶいたので政府の財政も立ちなおり、わずか三年で今までの借金もすべてかえしたといいます。
役人が自分の領地の島民ににわとりをあずけてその卵をとったり、野菜やたきぎをひどくやすいねだんで買い取ったり、島民のなんぎになることをきんじ、かいこんをしょうれいし増産をはかりました。
貴士族の子弟に日本の学問芸能をすゝめ一芸一能のない者は役につけないようにして彼等をはげましました。そのため、日本文化の研究がさかんになり五・六十年のちの尚敬王時代になってそれが花さき実をむすぶようになります。
島民の生活も羽地がじまんするように「百姓にいたるまで富貴」になったとは考えられないが、たしかに生活しやすくなったでしょう。
これを節用愛人の政治と羽地はいっています。しかし一方においてつよい反対もあり、ことに迷信の巣のようになっている王宮内の女たちが反対したらしく「女たちはゆた(巫女)を信ずる風があるから、女の迷信にまよわされぬように国司(国王)にも申上げ」「今すこし改めたいことがあるが国中に同志の者がなくまことにざんねんだ。」となげき「しかし自分を知る者が北方に一人二人いる。」といい、さつまには自分と同じ考えの人がいることをいっています。
改めたいというのは女たちの心の奥ふかくしみこんでいる古い迷信とむすびついた伝統的なお祭り でしょう。これだけは改めることが出来ずにやめたが、彼は摂政になるその日から改革にとりかゝり、わるい習慣はどしどし切りすて、住民の大多数をなす貧民をいたわりつゝ、道理にかなった新らしい(ママ)政治の方向をきめたことは、大きな功績です。