鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)⑧ ディスカバー・ジャパンと最後のSL
昭和45(1970)年3月、大阪・千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに万国博覧会が開催されました。まだまだ海外旅行が夢だった時代、世界の国のパビリオンを見学できるということで、大勢の人が日本中から大阪を訪れ、旅行ブームが巻き起こりました。この旅行ブームは、がむしゃらに働き続けてきた戦後の日本人が、旅行の楽しみを知ったきっかけであったとも言えるでしょう。
赤字に苦しむ国鉄は、このチャンスを逃すまじと、万博が閉幕した1カ月後の10 月14日(この日は、日本で最初の鉄道が開通したことを記念する、鉄道の日にあたります)から、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを始めました。サブタイトルは、ノーベル賞作家・川端康成による記念講演のタイトル「美しい日本の私」が採用されましたが、それまでの観光PRと違って、観光地の名前などを打ち出さない、徹底したイメージ戦略が功を奏しました。また日立製作所とタイアップして、にぎやかに装飾されたSL列車「ポンパ」号が全国を走り、それまでの硬い国鉄のイメージを払拭しました。
「ディスカバー・ジャパン」は、団体旅行が中心であった日本人の旅行の形態が、自由で気ままな個人旅行に転換していくきっかけともなりました。
日本テレビの人気番組「遠くへ行きたい」は、このキャンペーンと時を同じくして放映開始されましたが、1,200 回を超える長寿番組となっています。「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンは7年間続き、その後は山口百恵の歌う『いい日旅立ち』をテーマにしたキャンペーンに引き継がれていきます。
さて、国民の旅行熱が年々高まる中、昭和50(1975)年12月14日、「貴婦人」という愛称を持つC57型機関車が牽引する列車が、多くの鉄道ファンに見送られ、室蘭駅をあとにしました。この225 列車は、わが国における最後のSLが牽引する定期旅客列車でした。
昭和34年以来国鉄は、「動力近代化計画」を策定していました。具体的には、SLから電車や気動車などへの転換を意味していました。これは、旅客には「煙害」のない快適な旅とスピードアップを、国鉄には経営の合理化もたらしましたが、鉄道開通以来100 年余り活躍し続けたSLは、事実上の引退に追い込まれたのです。
しかし近年、観光列車として復活したSL列車は大人気です。山口線の「やまぐち」号や北陸本線の「北びわこ」号(令和2年を最後に運転終了)などがそうです。SL は再び多くの旅客を載せた客車を牽引して、その迫力ある姿で多くの旅行客や鉄道ファンにノスタルジーを提供しています。
連載第145 回/平成13年4月11日掲載