なにわの近現代史PartⅡ① 大阪駅誕生
近代的なビル群に囲まれたJR大阪駅。駅自体も複合的な施設となっており、大阪の観光名所のひとつと言ってもよいかもしれません。地下鉄や私鉄
の駅とも地下街でつながり、まさにJR大阪駅は、商都・大阪の中心に位置しています。
この大阪駅が誕生したのは、明治7(1874)年5月21日、大阪・神戸間に官営鉄道が開業したときのことでした。日本に最初の鉄道が開通したのは、その2年前の明治5年、「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり… … 」と『鉄道唱歌』に歌われた新橋駅(後に汐留貨物駅。現在は廃止)と横浜駅(現在の根岸線桜木町駅)の間、約29kmでした。
実は、既に明治2年に、あるアメリカ人とイギリス人が、阪神間の鉄道敷設を大阪府庁に願い出ていたのですが、権判事・五代友厚に却下されていました。五代は鉄道の公共性を鑑み、「国産」の鉄道建設を待ったのです。これは賢明な判断でした。同じ頃、清国では外国資本の鉄道が盛んに建設され、それに伴って沿線の権益が蚕食されてしまいました。とはいうものの、
財政や技術の問題などから、全て「国産」とはいかず、日本の場合も外国の協力を得て、開業にこぎつけました。
初代大阪駅は、中央郵便局の西側に位置していました。当時の市街地からはずいぶん北に外れた寂しいところでした。駅の周りは泥田だけで、もちろん街灯などありません。恐がりの鉄道員が、終列車が出たあと真っ暗になった駅を後にして退勤する帰り道を恐れて、姉に迎えに来てもらっていたという話も伝わっています。
それもそのはず、もともと大阪駅ができた場所は「大阪七墓」に数えられた墓地があったところだったのです。
本来大阪駅は、当時大阪の中心であった堂島付近に建設される計画でしたが、「火の車が近所走るのはかなわん」と商家に反対され、やむを得ず、街外れともいうべき梅田に作られました。同様のことは当時の鉄道建設に際して、各地でおこったようです。幹線鉄道の駅が中心部から外れていることをよく見るのは、そういう事情もあったようです。
イギリス製のピカピカの丘蒸気はイギリス人機関士が運転しました。駅員は士族が多く、ちょんまげ姿の人もいました。サービス業とは思えないほど偉そうに乗客を取り扱っていたようです。駅に張り出された『乗客心得』には、「発車十分前には駅に来て切手を買うこと」とありました。切手とは乗車券のことです。開業当時の運賃は、大阪から神戸まで上等1円、中等70 銭、下等40 銭。何せ、米1升が5銭で買えた時代です。列車に乗ることは庶民にとっては高嶺の花でした。
列車は日中1時間半毎に運転され、所要時間は1時間10 分でした。今では、新快速電車が日中15分ごとに運転され、阪神間を最速19分で結んでいますが、この時速28mの丘蒸気は、当時の人々にとっては、目も飛び出さんばかりのスピードに思えたことでしょう。
庶民はなかなか乗車する機会はありませんでしたが、大阪駅は弁当持ちで見物する人でにぎわいました。浪速っ子の間では、大阪駅は「梅田すてん所」と呼ばれ、大阪随一の名所となりました。もちろん、「すてん所」とは、ステーションのことです。
官営鉄道が京都まで延びたのは明治9年のこと。京阪神を結んだ官営鉄道75kmは、当時我が国最長の鉄道となったのでした。
連載第53回/平成11年4月21日掲載